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【平原康多引退特集】記者が見届けた「闘い」と「引き際」の美学ーー「もう頑張れとは言えなかった」

アプリ限定 2025/07/11 (金) 18:00 31

2025年5月、平原康多(埼玉・87期)が電撃引退を発表し、競輪界に大きな衝撃を与えた。2002年にデビューし、2008年にKEIRINグランプリ初出場。以降は計14回の出場を果たし、2013年からは10年連続でS級S班の座を守り続けた。GIは通算9回制覇し、グランドスラム達成まで残すは「オールスター競輪」のみという輝かしい戦績を誇る。そんな平原の素顔を、長年にわたり取材を続けてきた日刊スポーツ・松井律記者が振り返る。

3年前に平原康多から直々に指名を受けた(photo by Shimajoe)

「律さんにお願いしたい」ーー平原康多からの指名で始まったコラム連載

 netkeirinで平原君のコラムを担当することになったのは、3年前のことだった。
 本業と内容がかぶる仕事は避けていたため、予想記事や展望記事には関わらないつもりでいたし、連載が一区切りのタイミングでもあり、少し距離を置こうかと考えていたところだった。

 そんな中、「ぜひ律さんにお願いしたい」というnetkeirinからの声がかかり、平原君もコラムのリニューアルにあたって対談形式を希望。その対談相手として、私を直々に指名してくれた。悪い気がするはずもなく、詳細も聞かないまま「いいですよ」と即答したのを覚えている。

 連載は月に一度。会えるときは直接会い、難しければ電話取材でまとめるというスタイルになった。対談形式を希望したのは、「素の自分を出したかったから」だという。

「平原康多をぶっ壊せ!」弟のような素顔に出会った夜

藤井克信さんの前ではいたずら好きな弟のよう表情を見せていた

 平原康多といえば、武田豊樹とのゴールデンタッグで2010年代の競輪界を席巻し、現役最多のグランプリ出場回数を誇る若きレジェンドである。“関東のプリンス”と祭り上げられ、一人歩きしている聖人君子のイメージが少し負担だったようだ。

「平原康多をぶっ壊せ!」

 どこかで聞いたようなテーマを掲げ、共同作業がはじまった。とはいえ、平原君の実績を考慮すれば、急にイメージを壊すのは危険だ。プライベートにどこまで踏み込んでいいかも分からない。最初は手探りだった。でも、2回目に藤井克信さん(東京74期=14年3月引退)をゲストに交えたことで、一気に肩の力が抜けた。これは大正解だった。

 藤井さんは現役時代から平原君のよき兄貴分で、何かあれば真っ先に報告するような間柄だ。私も藤井さんとは公私に仲良くさせてもらっていて、平原君と深い話が出来るようになったのも、藤井さんの力によるところが大きい。2人は私の住む街まで来てくれた。私の行きつけで鍋を突っつき、二次会のバーでも同じペースで酒を飲んだ。話は尽きず、6〜7時間があっという間だった。藤井さんの前で見せる平原康多は、いたずら好きな弟のように自由奔放だ。この表情を少しずつ出していこう。

 自分の中で方針が決まった。

 競輪界では大スターであっても、日常はまったく気取らない男である。有名人という自覚がなく、自信過剰でもない。そして冷静だった。レースのこと、仲間や後輩のこと、体のケアのこと、時には家族のこと。いろいろと話してくれた。ほとんど手直しをされることもなく、ほぼNGがなかった。自分がどう見られるか?よりも、人を傷つけないか?を気にするタイプだ。時に後輩の走りを叱責するような内容もあったが、この裏にはきっとコラムを読むであろう後輩の顔を思い浮かべていたと思う。

ドミノを並べ直す日々、落車と闘い続けた2年間

選手生命に大きな影響を与えたけがと戦い続けた(撮影:北山宏一)

 2023年4月の武雄記念。この大会は前年度に平原君が無双状態で優勝していた。しかし、この年は悪夢が待っていた。準決勝の落車で、肩甲骨の骨折という選手人生で最大の重傷を負った。2ヶ月で戦列に復帰したものの、今度は復帰戦の高松宮記念杯競輪の青龍賞でも落車。ここで負った股関節へのダメージは、その後の選手生命に大きな影響を与えた。

 日ごろからレース後はLINEで連絡を取っていたのだが、ここからは心配する内容ばかりになっていった。平原君は過去にも落車は少なくなかったが、復帰すると、けがをする前より強くなって帰ってきた。しかし、この宮記念杯以降は、全盛時のキレが戻らなかった。

 そんな中、翌2024年のGI日本選手権競輪(ダービー)を勝ってしまった。かつての平原康多なら展開が向けば勝って当然なのだが、この時ばかりは、「勝ってしまった」という驚きの感情だった。

 落車は誰も得をしない。変な例えになるが、選手がレースに万全の状態で臨むためには10,000個のドミノを並べる作業をしているとしよう。この時期の平原君は半分ぐらい並べると、落車をして最初からやり直し。次は8割まで並べたのに、また落車で0からやり直し。こんな日々の連続で発狂寸前だったと思う。ダービー王になった表彰式で男泣きをする姿を見て、競輪の神様はいるんだなと思った。

平原康多が見せたダービー表彰式での涙(撮影:北山宏一)

 しかし、ここが最後のピークだった。何度もお祓いに行った話を聞いたし、担げるゲンは全て担いでいた。治療とケアには莫大なお金と時間をかけた。それでも落車過多は収まらなかった。

もう頑張れとは言えなかった…引退直前、平原康多が見せた姿

 今年3月の玉野記念。初日1着で幸先のいいスタートを切ったが、続く二次予選でまた落車。今度は失格のおまけ付きだった。今までなら回避出来たはずの展開で落車してしまう。本来のパフォーマンスを取り戻すことに限界を感じ、緊張の糸が切れてしまった。

満身創痍で戦う姿に頑張れとは言えなかった(写真提供:チャリ・ロト)

 玉野の直後に平原君から聞かれた。「今、僕が辞めると言ったら、どう思いますか?」

 体がボロボロなことは百も承知。次に落車したら、今度こそ取り返しのつかないことになるかもしれない。とてもじゃないが、頑張れとは言えなかった。何とかひねり出してこう答えた。「ファンにしてみたら、昨年優勝したダービーを走る姿を見たいし、オールスターでグランドスラムに挑戦する姿も見たいと思う」。我ながら“ズルい”返答だった。私の言葉が想定内だったのか、うんうんと言って、そこでその話は終わった。そして、引退発表前後のことは、netkeirinの読者なら全てご存知だろう。

 新規のファンには平原康多の過去の栄光を知らない方も多いと思う。だから、SSで結果を出せないことを揶揄したり、ふがいないレースをする度に批判の声は増え続けた。それにじっと耐える姿を見てきたが、もう何も我慢する必要はない。今後は、古参のファンにも若いファンにも胸を張って平原康多の知る競輪の魅力を広めていってほしい。3年間の共同作業は、自分の学びになったし、本当に楽しかった。ありがとう!

3年間本当にありがとう、楽しかった!(photo by Shimajoe)


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