アプリ限定 2025/05/13 (火) 18:00 9
5月4日、大盛況のもと名古屋ダービーが閉幕した。1月にも豊橋でGI全日本選抜が行われた愛知県にはかつて、絶大な売上を誇るもう一つの競輪場があった。一宮競輪場だ。編集部は、一宮競輪場跡地(現・サテライト一宮)からほど近くにあるマッサージ店『ぐっすり堂』に足を運び、2020年まで日本競輪選手会愛知支部長と中部本部長を務めた一丸安貴さんに話を聞いた。(取材・構成 netkeirin編集部)
一宮生まれ、一宮育ちの一丸さん。父親が競輪ファンだったことから、競輪は幼いころから身近だったという。
「ちっちゃいころから親父に一宮競輪場に連れていかれていました。当時は開催のある日は渋滞して、このあたりの道は通れなかったんですよ。それくらいものすごい客入りだったんです」
当時の競輪人気はすさまじいものだった。知り合いに競輪選手がいたことから、一丸さんも自転車競技を始めることになる。
「初めて自転車に乗った時に、もう良い感じでした。半分は素質じゃないかな。自転車に対する身体能力が高かったのだと思います」
競輪学校70期を首席卒業すると、1992年8月に20歳でデビュー。“日本一”になることを目指し、鍛錬の日々が始まった。
「日本一になるために、あらゆるものを犠牲にした日々でした。でもあと一歩のところで全然届きませんでした」
1998年には地元・一宮で開かれたオールスター競輪で決勝進出。自身は9着だったが、連係した山口幸二さんの優勝に貢献した。その後もGIでは2001年の日本選手権競輪(松戸)では決勝3着、2004年の寛仁親王牌(前橋)では決勝2着という結果を残したが、日本一にはわずかに届かなかった。
「悔しい思いをたくさんしました。本当に命がけで、“やるか、やられるか”の世界。それが面白かったんです」
努力した分、悔しい思いも数えきれない。一丸さんの思いがついに報われたのが、2006年のふるさとダービー(小松島)だ。同期である志智俊夫のマークから直線で抜け出し、GII初優勝を飾った。
「ようやく自分のなかで一区切りがついた、という思いでした。今後は競輪界のために自分で動こうと」
その後、2011年に日本競輪選手会愛知支部長および中部地区本部長に就任。競輪の売上は1991年の1.9兆円をピークに下がり続け、2010年には6300億円台まで落ち込んでいた。
「支部長、本部長職をやれば選手としてのキャリアはほぼ終わってしまうことはわかっていました。だからGIIの優勝がなければ絶対にやっていないですね。当時車券売上が落ち込み、今のままでは競輪業界がだめになってしまうという危機感があった。それで役職に専念しました」
役職に就いてからは、レースよりも圧倒的に役職としての仕事を優先する日々になったという。練習に確保できる時間は激減したが、それが一丸さんの選んだ道だった。
一丸さんが役職に就いた時期は、地元である一宮競輪場廃止の議論がされている真っただ中だった。2009年度に単年度赤字となった一宮競輪場は、2011年には経費削減により一度は黒字に戻ったが、見通しは厳しかった。
「もともと一宮競輪場は、中部で一番の競輪場でした。だから昔からダービーも開かれ、当時の中部8場のなかでも一番の売上を誇っていた。『中部といえば一宮』というくらい、一番の雄だったんです」
競輪界全体の売上が下がっているさなかでも、一宮競輪場は他場ほど状況が悪いわけではなかった。しかし、集客力があるからこその逆風を受けることになってしまう。
「入場客が多かったばかりに、バックストレッチ側に特観席を新設してしまった。今思えば、近い将来売上が苦しくなるであろうタイミングでの投資や維持費のかかる施策はしないほうが賢明だったでしょうね。業界の売上が下がっていても一宮は状況が良かったことが、判断を誤った理由のひとつだったかもしれません」
時を同じくして、同じ愛知県内の豊橋競輪場は存続問題を抱えていた。廃止も検討されたが“コンパクト経営”に切り替え、施行者と近隣住民、選手会が三位一体となって立て直し、廃止を免れた。
一方で一宮はというと、昔から売上がよく大規模な競輪場だった。敷地面積も広く、特観席はホーム・バックの両方にあり、駐車場も多い。つまり、とても経費のかかる競輪場だったのだ。
「一宮だけではなく競輪そのものが危ない状態で、このままでは潰れかねなかった。当時の6000億〜7000億円の売上で抱えられる競輪場数ではなかったので。選手会は施行者とのあらゆる交渉のなかで、賞金を下げざるを得ませんでした。当時47場ほどあった競輪場を廃止なく維持するために協力しあってきましたが、売上は下がり続け、それでも厳しい状況になってしまいました」
そもそも競輪を含めた公営競技は、戦後の地域復興のために発足した経緯がある。それが赤字に転じてしまい、存在意義を問われる事態となった。黒字転換するため、競輪場を減らさなければという局面で浮上したのが、前記のとおり経費のかさむ一宮競輪場だった。
「私の中でも『中部に1場だけ残すなら一宮競輪場、1場だけ潰すなら一宮競輪場』だと考えていました。一宮を起点に30分で岐阜競輪場と名古屋競輪場に行けて、40分で大垣にも行ける。もう一足延ばせば豊橋と四日市もありますから」
競輪界を守るために、一宮競輪場をなくすしかないーー。そうは理解していても、一丸さんにとって大切な地元バンクだ。
「選手としての目線で考えれば、地元バンクがなくなるのは寂しいに決まっています。愛知に3場あっても僕らの地元は一宮で、名古屋と豊橋は地元ではない。アマチュア時代から練習してきた一宮競輪場の存在は、かけがえのないものでした」
一丸さんは支部を率いて、一宮競輪場で働く人々との交渉や競輪場存続のための署名活動を行った。運営経費の削減には、当然人件費も含まれる。雇用を守らなければならない労組とはなかなか折り合いがつかなかった。
そして、2014年3月16日を最後に一宮競輪場での競輪開催は終了し、64年の歴史に終止符が打たれた。これは、中部地区の競輪場で初となる廃止だった。
「おそらく、ファンの皆さんもまさか一宮競輪場がなくなるとは思わなかったのではないでしょうか。競輪場がなくなってからも、サテライト一宮にはたくさんのお客さんが訪れています。変わらず車券が買えても、生で競輪が見られないのは寂しいのではないかな…」
それまで一宮競輪場をホームバンクとしていた選手は、名古屋競輪場に籍を移した。一宮で開催が行われなくなっても、しばらくはバンクや施設が残り、練習場所として機能していた。
「一宮最後の開催も、最後の記念競輪も、自分が走った最後のレースも、支部長としていろんな部分で最後の最後までずっと思うところはありました。廃止になった時よりも、競輪場の建物がなくなったときのほうが喪失感が大きかったですね。練習ができなくなった後も建物があって、まだそこに一宮競輪場がある風景があったから…。全部取り壊して別の建物ができた時に『なくなったんだな』と」
取り壊し前の2019年3月末、選手会愛知支部によるファイナルイベントが開かれた。選手会がイチからつくったイベントは支部長であった一丸さんの挨拶に始まり、2008年の一宮オールスターの事故で亡くなった内田慶さんのへの黙とうが行われた。
選手たちが支部訓練として一宮で最後のバンク練習を行い、ファンがバンクを走る機会も設けられた。一宮競輪場に最後の別れを告げるべく、たくさんのファンが押し寄せた。
「とんでもないお客さんの数で、バタバタだった記憶しかない。施行者や外部の手を借りずに、選手会が手づくりしたイベントというのも最初で最後だったかもしれないですね」
イベントでは選手が来場客にバーベキューを振る舞うなど、互いの思い出の場所で選手とファンの垣根を超えた交流が実現した。ファンとの距離が近いことで知られる今の愛知支部の礎ができたのも、一丸さんが支部長を務めた時代だ。
「支部としてはいろいろなイベントを行いましたね。支部のみんなには頑張ってもらっていました。エキシビションレースでは私が優勝するかと思いきや、金子(貴志)さんが勝ちました(笑)」
開設から約70年、廃止から5年。一宮競輪場は愛知支部らしい笑顔に包まれて、その歴史に幕を下ろした。
中部本部長という影響力ある立場を10年務めあげた一丸さん。
「この役職を務めたことで莫大な経験をさせてもらい、人生の中で一番濃い10年だったと思います。いろんなことを学びました。その一方で何も残せなかった、という思いはあります」
一丸さんが“競輪界を変える”ために働きかけたことは無数にあった。シャープな頭脳と徹底的な考察で、根気強く上層部へ提言した。当時から進言していた『ミッドナイト競輪の拡大』は結果的に実現しているものの、“自らの手で何かを変えた”という実感は得られなかった。
「競輪をギャンブルや娯楽のひとつとしてではなく『競輪だから好きなんだ』という、本物のお客さんをつくることで競輪界は上がっていけると思う。業界として、ステータスを上げることが必要ですね」
投票するファンがいるからこそ成り立つのが公営競技であり、競輪だ。そこにはスポーツとしての魅力と射幸心の両面があるからこそ、一丸さんのいう“本物のファン”は重要だろう。競輪界の真の発展のためには、射幸心を満たすだけではない“競輪ならではの魅力”に惹かれるファンを増やすことから目を逸らしてはならないはずだ。
2020年に役職を退くと、10年ぶりに選手一本の生活に戻った。
「もう1回選手を頑張ろうと思ったんですよ。もう一度S級に上がったら格好いいよなって。それまでは役職の仕事で練習できなかったから成績が悪かったけど、自分は練習すればもっとできるはずだと。でも、いくら練習しても戻りませんでした。2年でS級に戻ることは無理だと悟って、引退を決めました」
一番の原因は、40代半ばで負った3回目の脱臼だった。
「練習もケアもいろいろ試行錯誤したけど、だめでした。S級復帰という目標がなくては、ただ走るだけになってしまう。ならばもう辞めようと」
2022年の夏に引退を決心。11月まで誰にも心の内は明かさなかったという。ラストランは12月の豊橋で、家族や地元の仲間たちが見守るなか、現役最後のレースを終えた。その年の瀬に行われた愛知支部のイベント『サポーター大感謝祭』で引退セレモニーが開かれ、地元ファンに直接別れの挨拶をした。
引退後は一宮市内でマッサージ店『ぐっすり堂』をオープンし、丸2年が経過した。
「役職を降りたあと、いくら努力しても選手として結果が出なかった。それまでの人生はやれば結果が出ていたので、初めての経験でストレスで眠れなくなってしまいました。自分はストレス耐性が強いと思っていたし、なんでも乗り越えられる自信があったけど、年齢とともにキャパシティが小さくなっていたのかな…。いろんな症状があったけど、寝られないことが一番しんどかったです」
競輪選手は“個人事業主”で、練習メニューや日ごろのケアは自分で考える機会が多い。個人でトレーナーを契約することはあっても、プロ野球やサッカーのようにチーム専属の監督やコーチ、トレーナーが揃っている環境ではない。そのためおのずと体に詳しくなり、選手はマッサージが得意であることが多いそうだ。
「私ももともと家で妻や子どもに頭や首のマッサージをよくしていました。息子は私のマッサージを受けるとぐっすり寝られるそうで『父さん、これ仕事にしたらいいじゃん』と言っていたんです」
実際、『眠れない』という悩みは競輪選手にありがちなのだそうだ。例えば家では眠れても、競輪場の宿舎でレースのことを考えると眠れなくなってしまう選手はよくいるという。
「競輪選手は成績しだいで最悪クビになる。個人事業主なので、そういうことを考え始めると寝られなくなりますね。お店のお客さんにもいろんな方がいて、経営者の方などは夜中にぱっと目が覚めて眠れなくなることがあるそうです」
体力勝負のアスリートにとって、よいパフォーマンスを発揮するために睡眠はやはり重要だろう。もちろん、アスリートではない一般の人々にとっても睡眠と健康は切り離せない。
「眠れないことに付随した悩みを、いろんなお客さんから聞きますね。自分も選手時代に悩んだので、ぐっすり眠ることの大切さを広くいろんな方に届けたいと思ったのがこのお店を始めたきっかけです」
セカンドキャリアにマッサージ店を選んだ理由はそれだけではない。自分だけではなく、ほかの元競輪選手にノウハウを広め、フランチャイズ化する可能性を模索する目的もあった。
「競輪選手はセカンドキャリアで悩む人がとても多いです。競輪選手は体に詳しく、マッサージが得意ということがアドバンテージだと思うので、事業モデルを確立すれば全国の引退した選手でフランチャイズ展開ができるんじゃないかと。それもこの店を成功させたい目的でした」
ノウハウ蓄積のため、一丸さんは独学でマーケティングし、自らの足でポスティングにも行った。しかし最初の1年で当初の野望は崩れてしまったという。
「最初は“頭のマッサージ店”として差別化を図ったけど、期待したほどの需要はないのかなと…。今はボディのメニューも増やしています。ヘッドマッサージだけで集客するのは難しく、ボディマッサージになると競合がとても多いので、必ずしも成功させるというのは難しいのかもしれないと思いました」
開業から2年目も試行錯誤を続けた。すると、見える景色は変わってきたのだそうだ。
「人間、そのときによってやりたいことは違うじゃないですか。最初は『全国展開するぞ』と意気込んで商売を始めて、一度立ち止まってみて。今はひとりで店をやっているからいろんな意味で自由なんです。だから今はのんびり続けて、人生楽しもうかなと。ここでいろんなお客さんと話をするのも楽しいですしね」
野心に燃えて始めた新しいビジネス。現状は“今を楽しむ”スタイルに切り替えた。これからまたどのように一丸さんの関心やエネルギーが動いていくかはわからない。競輪選手時代は役職も務め、ある種ビジネスパーソンとしての経験が豊富だった一丸さんでも、セカンドキャリアは一筋縄ではいかなかった。
「競輪選手のセカンドキャリアは、引退した時点でエネルギーがどれだけ残っているかが大事です。私は50歳で引退しましたが、これ以上になると新しいことを自分でやるというエネルギーを持つのは難しい。競輪の選手寿命が長いがゆえの側面なのかもしれないですね。『自分には競輪しかない』と思えば還暦過ぎても続けられる。もちろんメリットも大きいですよ」
実際に2025年5月時点で60代の現役競輪選手は11人もいる。肉体が資本のスポーツにおいてこの選手寿命の長さは驚異的だろう。だが、競輪界には成績低迷が続けば強制的に引退となる『代謝制度』があり、自分の気持ちひとつで走り続けることはできない。それゆえに、40〜50代で引退した選手が社会に馴染めないこともある。
「求めるものが、お金なのか、時間なのか、やりがいなのか…。そういう軸が引退したときにないことが、選手のセカンドキャリアを難しくしていると思います。逆に言えば、そこが明確になれば成功率は上がるでしょうね。競輪選手という仕事はそれなりに収入がある。だから辞めたときはよくても、そのあと路頭に迷ってしまったら、70歳の時に“競輪選手になってよかった”と思えるのだろうかと。考え方でいえば、エネルギーが残っているうちに第二の人生に切り替えるというのもひとつの選択肢じゃないかな」
一丸さんのセカンドキャリアは当初の目標からは変化した。しかしひとつ、ぶれない軸がある。
「お客さんとの会話を大事にしているということは変わっていないですね。お客さんひとりの予約が入ったら施術時間を含めて2時間の枠を押さえているんですよ。1時間施術、1時間お話ということもあれば、おしゃべりのほうが長くなることもあります(笑)」
人生経験豊富な一丸さんを頼って、お客さんから悩みを持ちかけられることもあるそうだ。
「人生相談に来る人もいますし、おしゃべりする時間を求めてお店にいらっしゃる方も多いですね。話すことで、悩みや生活パターンもわかるので、施術の参考にもなるんですよ」
そしてこだわりは『ぐっすり眠れるようになること』。一丸さんは「自分が話し好きだから」と笑うが、会話を通じて心が軽くなれば快眠につながるだろう。『ぐっすり堂』にとって、会話の大切さは必然でもある。
「ぐっすり寝られるようになるには、寝る前になにを考えるかというのも大きいです。人ってどうしても、寝るときに仕事のことや心配事を思い浮かべてしまうんですよね。リラックスして眠りにつくのって難しいんです」
心の不安は会話で和らげる。そして、肝心のマッサージだ。一丸さんがヘッドマッサージを重要視した理由は、体のことをよく知っているからこそだ。
「リラックスした状態というのは、副交感神経優位の状態です。副交感神経は首を起点にしているので、首や肩が凝っていると緊張状態になってリラックスできない。つまり熟睡しづらいということにもなります。首や頭をマッサージしているとみんなだいたい寝てしまうんですが、それは生理学的なものなんですよ」
体は関節が正しい動きをせず無理な姿勢になることで張ったり、痛みが出たりする。一丸さんはひとりひとりの骨格や、生活スタイルに応じてアプローチを変えている。会話と実際に触れた体の状態から首・肩が凝る理由を突き止め、改善することで“ぐっすり”へ導く。
「女性は40歳、男性は50歳から健康に対して努力しないと、よい状態は維持できません。うちのお客さんには毎日痛み止めを飲むような頭痛持ちの方が多いのですが、通ってくれるうちに痛みが減って、薬を飲まなくなったと言ってくれるのでうれしいですね」
勝負の世界から癒しのサービスへ、活躍の場を大胆に変えた一丸さん。だが、競輪とマッサージは根底で密接につながっていた。
「基本的にはシンプルに、やりたいことをやっているだけです。日本一になりたかったときは日本一を目指して取り組み、競輪界を変えたいと思っていた時はそのために一生懸命働いた。この仕事もそうで、“今、これがやりたい”というのが原動力。幸い、子どもも手離れしていて私の状況としてもやりたいことができるので」
競輪選手としてトップを極め、中部本部長として競輪界に働きかけた。高いエネルギーを出力し続けてきた一丸さんにとって、今は一度立ち止まるタイミングなのかもしれない。
「今、人生ちょっと立ち止まって、どう生きようか考えている最中です。自分の人生を振り返って一番思うことは、とにかく行動が大事だということ。店に来てくれるいろんな人からいろんな話を聞いて、経験から出る言葉の濃さをとても感じています」
一丸さんのバックボーンには、常人には想像しえない経験がある。だからこそ人の言葉の重みがより深く響くのだろう。
「私もこれまで経験を根拠に考えて実体験ベースで動いてきた。何事も真剣に考えれば、やるべきことが見えてくる。この店の方針も今後まだまだ変わっていくはずです」
そう言ってニヤリと笑った一丸さん。その瞳には、まだまだ大きなエネルギーが宿っているように見えた。
インタビュー後、編集部も実際に一丸さんの施術を体験させていただいた。もむ、押す、叩くを組み合わせた一丸さんの手技に、編集部もつい「ぐっすり」…。痛みはないのに、施術後立ち上がったときの体の軽さと“スッキリ感”に非常に驚いた。普段、車券予想で頭を使っている読者の皆様にもぜひおすすめしたい。足を運ぶ際は予約をお忘れなく!
『ぐっすり堂』 営業時間10:00〜22:00(不定休)
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netkeirin特派員による本格的読み物コーナー。競輪に関わる人や出来事を取材し、競輪の世界にまつわるドラマをお届けします