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誓約書を交わしてから15年…父として息子へ伝えたい「浩平ありがとう」 / 競輪父子鷹 part2

アプリ限定 2024/04/04 (木) 18:00 43

陥落してわずか50日でS班に復帰した郡司浩平。前編では“師匠として”の目線から見た郡司浩平の姿を語ってもらったが、後編では“父親として”の目線から見た姿を語ってもらった。父でもあり師匠でもある、郡司盛夫(引退=50期)の父の顔とは…。(取材・構成:netkeirin編集部)

父・郡司盛夫氏から見た郡司浩平とは

野球は続けるつもりはないと競輪界へきた郡司浩平

ーー郡司浩平選手の子どものころはどんな性格でした?

郡司盛夫(以下:盛夫) 小っちゃい、幼稚園くらいの時はおちゃらけているようなタイプ。お兄ちゃんと違ってね(兄・涼平、浩平、妹・麻央の3人兄妹)。野球をやるようになってから、物事をしっかり見るようになりました。

ーー兄弟で違いますか?

盛夫 お兄ちゃんにも「自転車乗ってみれば?」と言ったことあるんです。素質はお兄ちゃんの方があったと思う。でも性格的に一気に上がって下るタイプ。浩平はコツコツやるタイプで、大崩れとかしないな、と。友だち関係、人脈とかにもつながって実を結ぶ感じ。柔軟体操もお兄ちゃんはすぐにやらなくなったけど、浩平はお風呂上りにしっかりと続けていた。その辺は言わなくても、やっていましたね。

ーー浩平選手は高校野球をやっていたと思いますが、そっちへは進まなかった?

盛夫 才能はあった方だと思います。守備でも運動能力はちょっと違うなと感じた。バッティングもそこそこは打てていたけど、体がないから進路を決める時に野球を続けるつもりはない、と。それでこっち側(競輪)に来た。

ーー競輪に体の大小は影響ないんですか?

盛夫 競輪は、自分に合った自転車でやるものだからね。やるにあたって誓約書を書いてもらったりしたけど、やるということに関してはうれしかったよ。

初めて見た、郡司浩平の涙…

浩平だけは選手にさせなきゃ、と誓った(撮影:北山宏一)

ーー誓約書の紙の重みが…

盛夫 あの時は、泣きました。俺じゃなくて、浩平がね。なんで泣いたのかは分からないけど…。

ーー浩平選手が泣いているのを見たことは…?

盛夫 涙を流しているのを見たのは誓約書を書いている時が初めてだった。

ーーそういう関係がつらかったりとかはありましたか?

盛夫 あの時は俺もジーンときたんだけど、俺も覚悟を決めていたから。まだ48歳くらいでS級にいた時で、もう俺はいつやめてもいいから浩平だけは選手にさせなきゃ、って思っていたよ。

ーー父親から師匠へ…どんなところが今まで違いましたか?

盛夫 親子だったら朝、別に「おはよう」とか対してあいさつなかったのは何も言わなかったけど、誓約書を書いた次の日からは日常生活から何から、指差して「あいさつは?」とか靴を並べるとか、子どもだから家でだらしないところもあるけど、そういうところを見直させました。

自分自身もいっぱいいっぱいだった

ーー誓約書を交わしたら違う世界に変わった?

盛夫 内弟子じゃないけど、一緒に住んでいて四六時中そばにいますから。僕もその時はいっぱいいっぱいだったけど、浩平もいっぱいいっぱいだったんだと思う。だから「早く合格してやるぞ」と思ったのかな。

ーー競輪学校への合格はスムーズでしたか?

盛夫 1回目の時は1ヶ月くらいしか準備期間がなくて、一次は受かったけど、二次でダメだった。落ちた後、10月くらいからはメリハリを付けるために今年いっぱいは好きなこと、高校生活を楽しんでいいよ、と。免許を取りに行ったり、遊びに行ったり。自転車は乗らないよ、と。それが続いたのは1月過ぎまでかな。

ーー競輪選手を目指すと言ってきた時はどんな気持ちでしたか?

盛夫 正直、うれしかったよ。「やりたいことあるのか?」って聞いたら、警察官との2択でね。とりあえず1ヶ月乗ってみろ、と。1ヶ月でダメだったら、辞めさせるからねって。1ヶ月で大丈夫そうだったから、そのまま。長いスパンでやるわけじゃなかったので、一気に合格タイムにもっていかないといけなかった。「これをやってろ」と言われたのに、やりたくないからやらない。でも同学年の人間が合格し出して焦り出して、自分で切り替えてやるようにした。ホント、サボってばっかいたんだけど…。僕が選手になる時にそういうのがあったからね。

デビュー後に襲った膝のケガ

ーーデビュー後にすぐケガをしましたよね?

盛夫 あの時はね…。僕もケガは多かったけど、膝はやったことなくて選手仲間に聞きました。「厳しい」っていう状態でした。固定して治すか、手術して治すか。すぐにルーキーチャンピオンレースがあって、それを目指してやるっていうんで、「じゃあ、手術だ」と。鋼管病院で手術したんですが、東山(公昭)さんが一緒にたまたま入院していて、次の日からリハビリ。東山さんがいたから、すぐにリハビリを続けていけたと思うんです。東山さんは厳しい人なので。そこはラッキーでした。ケガの仕方じゃないけど、まあしてもらっちゃ困るんだけど、鎖骨を折ったり何したりしても、入院せずに次に何をしていくかが明確ですね。

ーールーキーチャンピオンレースは2着でしたよね?

盛夫 あそこは頑張れたけど、その後「痛くてダメだ」ってね。その期の最後の方は休んで、針金が痛くて12月はそれを取ってだったけど、ぎりぎりチャレンジから上がれたんだよね。もしかしてそのままチャレンジだった、ってなると…ね。

ーーステップが狂うと怖い

盛夫 そうなんだよね。

泣きそうな顔はしていたけど、全然へこたれなかった

野球で基礎は作れていた郡司浩平(撮影:北山宏一)

ーー浩平選手は「野球より競輪の方がつらい」と言っていましたが…

盛夫 進路の話が3月にあったので、最初、春の大会が終わったら1回セッティングをしようと。でも、終わった夜、約束していた時間に来なかったんですよ、俺のところに。春の大会はすぐに負けちゃったんです。俺はず〜っと待っていたんだけど、来なくてね。女房に「ちょっと言って来いよ」と伝えて見に行ってもらったら、降りてきて「春、負けたから頭の中切り替えられない」って。じゃあ、夏の大会が終わってからにしよう、夏の大会が終わったら俺のところに来い、と。

ーー野球時代の練習は?

盛夫 野球の練習って見ていると大したことないな、って思っていたんです。だから、練習を増やすために「お前、副キャプテンなんだから、ダッシュみんなでやろうぜ、と言ってやってこいよ」と言ったんですが、見に行ったらやってなかったね(苦笑)。

ーー浩平選手は体力はありましたか?

盛夫 自転車の練習をし始めたら、野球も1日練習するから、体力はできているな、と思った。泣きそうな顔はしていたけど、全然へこたれないし。野球で基礎は作れていた。お客さんなんかでも、競輪選手になるには、って何人か聞きに来る人がいるんだけど、何でもいいから運動をやって、体を柔らかくするようにしていれば、あとはいつ選手を目指すにも何とかなるよ、って。

山口拳矢のプレッシャーは計り知れない

郡司盛夫氏から見る山口幸二(右)・山口拳矢親子(写真提供:チャリ・ロト)

ーーその後は一歩一歩成長していきましたが…今、盛夫さんの目からは山口幸二・山口拳矢の親子はどう見えていますか?

盛夫 いや、山口幸二と僕を比較したら、全然ね(笑)。実績が違うんで。拳矢君の方が相当プレッシャーはかかっていると思うよ。浩平に対してじゃなくて、拳矢君に対しては、しっかりやることだけ、練習だけはウソつかないから、そこらへんはやって、ダメでもずっとやっていれば、ポテンシャルを持っている子だから絶対大丈夫だと思う。

ーーいや、盛夫さんもずっと特別競輪で戦ってきましたよ

盛夫 今と昔じゃ全然違うし、昔はデビューしてすぐにマーク屋、追い込みになることもできたけど、今の子じゃできないし、S級にも上がれない。前で走る方が楽しいと思うし、まあ、競りも充実感はあるんだけどね。「前でしっかり走れる選手になりなさい」と言ったことはありますね。

ーー成績によって家庭の雰囲気は変わりました?

盛夫 成績が悪いと家のみんなもシュンとなっちゃうけど、いいと家の雰囲気も良くなるから。まだジイさんなんかも「なんであれダメだったんだ!」とか言うので。もう俺も説明するのめんどくさいし(笑)。勝てば、良かった良かった、で。

盛夫氏より厳しかった祖父

「とにかく自分より親父は厳しかった」と話す郡司盛夫氏

ーー「浩平」の名付け親はお祖父様だとか

盛夫 親父が、たいら(平)っていう名前で、競輪が好きで、女房と親父で話して中野浩一さんの「浩」をもらって、浩平。

ーー家の中で父と師匠の切り替え、みたいなことはあった

盛夫 う〜ん、父…、いやずっと師匠目線でしたね。ジイさんがうるさく言うから、競走近くになって飲みに行ったりしていると「なんだお前は」って。で、あんまり遅くなるのも良くないから、「注意しないと言われちゃうぞ」と浩平に伝えたりね。

ーーお祖父様は厳しかった?

盛夫 親父はホント昭和の人間で頑固。まだ、言うんですよ。初めて優勝できた時は「良かったな」だったのに、今は平気で「あともう1本な」とか言う。ジイさんは厳しい。浩平にも言うけど、俺とか女房にも降りかかってくるから。

ーー奥様は大変だったんじゃ…

盛夫 女房が一番大変だったんじゃない? 俺に対してと浩平に対してと、両方あるし。今でも、僕のタバコのこととか爺さんは女房に言うんですよ。やめないよ、タバコ! まあ、もう女房には、ほんと、兄妹3人いるんだけどみんないい子に育ててくれて「ありがとう」ということしかない。

ーー浩平選手はずっとご実家から通われていたんですか?

盛夫 ジイさんも厳しいし、そのうちにもう家を出て、なるべく競輪場から近いところに住みなよ、と。

ーーそれで川崎競輪場の近くに引っ越したのですか?

盛夫 で、あの時、ぶっちゃけて話しすると、免許も違反がたまってギリギリのところだったんですよ(笑)。朝練から午前中に切り替えて、通う時間帯が変わると変な道通っちゃって捕まる、とかでね(笑)。

やらなきゃいけないところはやっていく性格の郡司浩平(撮影:北山宏一)

ーー練習に打ち込んでいた?

盛夫 昔は街道練習が一般的だったけど、ウエートとオートバイで補えるようになってきた。競輪場の近くが一番いい。

ーー盛夫さんは小島寿昭さんとの花月園競輪場での早朝からの練習が有名でしたよね?

盛夫 血を受け継いでいるっていうか、もともとが真面目なタイプだから、やらなきゃいけないところはやっていく。僕や小島なんかと違うのは、オンとオフを切り替えるのが上手。僕なんかだと、“今日を休み”明日を練習と思うと、休みでも明日の練習のことを考えちゃう。晩飯も遅くはならないようにと引き上げるから、家族は面白くなかったと思う。

ーー浩平選手から怒られたこととかはありますか?

盛夫 どうかな、ないかな。今は、以前僕の作った練習メニューでやっていたのを、浩平からこういう風にしよう、ああいう風にしようと話してくれて変えていく、とか。そんな感じ。

ーーGII初優勝の祝勝会で、亀谷隆一とブリーフ一丁で踊っていた

盛夫 ハハハ、ちょっとね〜、あの辺だけは、もうそろそろやめてほしい(笑)。でもああいう性格なんだよね。野球の時もそういうキャラは持っていたみたい。家では出さないけどね。

浩平…こんなに素晴らしい選手になってくれてありがとう

普段は言えないが「素晴らしい選手になってくれてありがとう」と伝えたい

ーー直接は言えていない、実は思っていることは?

盛夫 ……。う〜ん。思っているっていうか、「こんなに素晴らしい選手になってくれてありがとう」っていうのはね。最初のころはお客さんから、負けると罵声っていうか、いろいろ言われることもあったんだけど、今は全くそんなお客さんいなくなってね。お客さんの期待に応える選手になっている、っていうのがお客さんの方からひしひしと伝わってくるんです。優勝すれば、知らないお客さんも「おめでとう」とわざわざ言いに来てくれるんです。ただ、上には上がいるので、そこは忘れず、常に注目されるところだから、しんどいと思うけど、あと何十年もやれるわけじゃないし、ここ10年くらいはしっかりやってほしいね。

ーー直接、「浩平ありがとう」は言いづらい

盛夫 言いづらい! おめでとう、とは言えるけど(笑)。

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