アプリ限定 2023/09/05 (火) 19:30 95
6月7日に現役を引退した佐古雅俊さん。63歳まで現役を続けその人柄で誰からも愛された“競輪仙人”に、競輪選手になった経緯や43年にわたる選手生活について聞いた。「寝ないで練習していた」という噂や、「20代の頃に外車を現金で一括購入した」という噂もあるが、その真偽はいかに。そして、人生を捧げた競輪界への想いは…。(取材・構成 netkeirin編集部)
山口県岩国市に生まれ、小5で野球を始めた佐古さんは福井高校へ野球留学。1年夏にはベンチ入りメンバーとして甲子園出場も果たしたが、競輪選手になったきっかけはなんだったのか。どんなところに魅力を感じたのだろうか。
「甲子園の開会式では、二つ隣に神奈川の東海大相模がいて、2学年上の原辰徳さんや津末英明さんがいたのを覚えてます。僕はレギュラーではなかったけどね。大学でも野球をやろうと思っていたんですけど、ある雑誌で“あなたも競輪選手になれる”という広告を見つけたんです。当時は競輪のけの字も知らなかったですよ。でも年収が2000万円って紹介されていて、これだ!って思った(笑)」
佐古少年は、親にも先生にも内緒で競輪学校の適性試験を受験。すると授業中に競輪学校から連絡があり、先生たちや両親にバレてしまう。
「1度だけ受けさせてくれ、ダメなら諦める、と説得して。そうしたら合格することができました。あとからなにかで分かったんだけど、どうやらビリで合格していたみたい。もし受かっていなかったら、全く違う人生になっていたんでしょうね」
たった一度のチャンスを掴み、奇跡的に合格。厳しいことで知られる競輪学校は、佐古さんにとっては“天国”だったそうだ。
「高校野球は練習もそうだけど、上下関係が厳しかった。競輪学校は年上の大学生の人も対等に自分に話しかけてくれた。高校時代を思うと心が楽でした」
現役生活43年でタイトルとは無縁だったが、GIでは7度の決勝進出。1989年のフランス・リヨン世界選手権ではプロ・ケイリン種目で銅メダルにも輝き、1988年はグランプリにも出場した。競輪界の第一線で活躍した佐古さんにとって、一番の思い出に残るレースはどのレースだったのか。
「現役生活一番の思い出は、まくって2着になった全日本選抜競輪(1988年)ですね。中野浩一さんが優勝したレースです。あれは悔しかったね。GIの決勝は7回乗ったんだけど、最後まで一番にはなれなかった。自分を信じなかったから一番じゃなかった。信じないとダメだね」
【動画】1988年 全日本選抜競輪・決勝
取材を通じて、佐古さんからは終始謙虚さが伝わってきた。それが人格者たるゆえんだと感じたが、勝負の世界では仇となった部分もあったようだ。
「同期の松本整さんなんか、まだ弱い時から“自分が一番になる”と思ってましたからね。自分を信じていたんでしょう。僕は自分の成績に満足しちゃってた。当時の練習量は日本一だと自負してるけど、やっぱり自分を信じられなかった。もしタイトルを獲れていたらまた違った人生を送れたかもしれないし、もしかしたらもっと早くに辞めていたかもしれない。それはちょっと分からないけどね」
一番悔しかったレースを挙げた一方で、世界の舞台での活躍を満面の笑みで振り返る。
「田舎もんがフランスのリヨンという街で日の丸を掲げられた、世界で3位になったというのは誇りに思います。当時はナショナルチームはなくて、全プロ競技の成績優秀者が選ばれてました。そう考えると、競輪をやりながら世界選10連覇した中野浩一さんは凄いよね」
【動画】1989年リヨン世界選手権 ケイリン
インタビュー前編では現役最後の1着について振り返ってもらったが、60歳の時に地元・広島競輪場で獲った1着には思い入れがあるのだそう。
「印象に残っているのはA級(1、2班戦)最後の1着(2020年5月29日)。60歳の時に広島で、(単騎の)9番手から1着を獲れた。獲りに行って獲れた1着はやっぱり違いますよね」
まさに“勝負師・佐古雅俊”健在をアピールした渾身のレースだった。
では、現役生活43年で一番嬉しかったことは何だろうか?
「練習仲間の存在だね。今のチーム(佐古グループ)を立ち上げて12年が経ったんだけど、歳を取ってから練習仲間の成長が自分のことのように嬉しくなった。それまでは基本的に練習は一人でやっていたし、人の成績とかあまり気にならなかった。でも仲間の成績で喜怒哀楽を感じられるようになった。グループを作って、こういう世界に入って良かったと感じましたね。財産ですよ。成長してくれる姿が嬉しいね」
目を細め、穏やかな声で練習仲間への想いを明かした。引退に際し、自身で立ち上げ率いてきた練習グループはどうなってしまうのだろうか。
「しがらみとかできたら困ると思って解散しようと提案したんだけど、みんなが『佐古グループ』という名前を残すと言ってくれて嬉しかったですね。作った甲斐があったなって思いましたね」
今後も『佐古グループ』の選手たち(大川龍二、戸田みよ子ら)が佐古さんの想いを繋いで頑張ってくれることだろう。
またこれだけ長い現役生活では、苦労が絶えなかったことも想像に難くない。競輪人生で一番つらかったことを聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
「つらかったことはないですね。日本一になれなかったことは悔しいですけどね」
それでもただひとつ、悔いの残るレースがあるという。
「僕が(A級1・2班から)チャレンジに落ちるきっかけになった防府での失格、あれは失敗したとは思っていないんです。ただ失格になったのは自分のミス。でもそれも運命ですから」
競輪界の“生ける伝説”であった佐古さんには、数々の噂がある。ストイックなあまり『寝ないで練習していた』という噂について確かめてみると、佐古さんは笑いながら否定した。
「寝ないで練習はないですよ(笑)。でも練習量は多かったと思う。自分は自転車の経験がなく、適性試験で競輪界に入った。高校から自転車をやってたやつに追いつかなければ、という気持ちでしたね。強くなろうというよりも、追いつこうと。若い時は5時間はサドルに乗っていた」
多少尾ひれはついていたものの、“練習の虫”であったことは事実だった。しかし、競輪選手の練習法の定番であるローラーは嫌いだという噂もある。
「それは本当(笑)。ローラーは全然乗らなかった。合計でも50キロも乗っていないと思う。練習は街道(ロードトレーニング)です。自分で考えていましたね。坂があればモガく、直線があればモガく。大雨の日は休んで、少しでも晴れたら乗りに行く。そんな感じでしたね。よく広島カープの2軍球場がある方の農道に行っていました」
さらに、佐古さんのWikipediaには『現金で高級車を買いディーラーを驚かせた』という記述がある。本人に真偽のほどを直撃した。
「現金で高級車? はいはい、23歳の時かな。Tシャツとサンダルで車を買いに行ったら、ディーラーに相手にされなかった。800万円のBMWですね。その時お店にいたおじさんにはコーヒーが出てたのに、僕にはパンフレットだけくれた。あぁ僕にはコーヒーもくれないのか、って思いましたよ(笑)。で、次の日にまた行って“現金で一括で買います”と言ったら驚いてましたね。5年くらい乗ったかな。その後はベンツ、ジャガー、ボルボ。いろいろ乗りました」
この噂についてはよく聞かれるそうで、「なぜかこの話はみんな知ってるね(笑)」と不思議がっていた。高校時代『年収2000万円』に夢をみた佐古さんは、しっかり夢を叶えていたようだ。
トレーニングと節制の日々を終え、今後はどのように過ごすのだろうか? 誰もが気になる質問を投げかけてみた。
「競輪に携わることができたらいいかな。大きなことじゃなくても雑用でもいいので。本当はね、競輪学校の教官をやりたかったんだけど、55歳までしかダメみたい。生徒の成長を喜べる、いい仕事だよね」
望んだプランは叶わなかったが、今後も競輪に携わる可能性はあるようだ。今はゆっくり過ごしているといい、久しぶりにお酒も嗜んだそうだ。
「(現役引退の)送別会をもう4〜5回はやってもらいましたね。酒はほとんど飲まなかったけど、辞めてから送別会で久しぶりに飲みました」
人格者として知られるだけに、交友関係も広いのだろう。送別会に引っ張りだこのようだ。
「ええ人生だったと思いますよ。賞金でグランプリにも乗れたし、楽しいことをやって稼げた。しかも幸いにして上のクラスから下のクラスまで経験できた。幸せでした」
なんと佐古さん、あの現役レジェンド選手のファンだという。
「僕ね、神山(雄一郎)のファンなの。最後まで(現役で)やってほしいよね。超一流が最後の最後までやれば何歳まで、どのくらいまでいけるのか… 興味がありますね」
今年、現役最多となる通算900勝を挙げた神山雄一郎は、先行選手としても追込選手としても日本一になっている。
「神山とは世界選手権で一緒だったんです。彼は自分を変えられる選手。勝つために自分を変えられる。いちファンとして彼のことが好きなんですよ」
多くの競輪ファンはもちろん、競輪を知らない人も“63歳の現役選手”の存在に驚き、佐古さんから勇気をもらったことだろう。ファンへの想いを聞いてみると…。
「感謝してますよ。辞めてから初めてファンのありがたみが分かった。実は、ファンというのはあまり意識したことがなかったんです。横断幕とかも断っていたくらいで…。でも辞める寸前に2人ほど出待ちしてくれた人がいて、自分にもファンがいたんだな、と実感しましたね。2〜3時間も待ってプレゼントをしてくれて。ありがたかったですね」
ファンをめぐっては驚きのエピソードも飛び出した。
「あとは“盆栽事件”です。15年から20年くらい前かな、(競輪場の)管理にファンの人が僕に盆栽を置いていったって言うんです。どうやら50〜60年くらい経ってる盆栽だったみたいで。凄く勉強して育てましたよ。結局、最後までどなたがくれたのかも分からなかった。ご健在ならお礼を言いたいです」
競輪を愛し、競輪に携わる誰からも愛された佐古さん。最後に競輪界への想いを聞いた。
「本当に幸せだった。競輪界に感謝しかない。正直、寂しいです。競輪場で死ぬのなら何も怖くなかった。練習できないことが寂しいですね。でも、また競輪場で会えると思いますよ」
自転車競技未経験からぎりぎりで競輪選手に合格し、バンクで43年間その生きざまを見せてくれた佐古雅俊さん。佐古さんの想い、生きざまは佐古グループのメンバーがしっかりと受け継がれている。今後は後輩の成長が佐古さんにとっても、なによりの楽しみになりそうだ。佐古さんはバンクの外からでも競輪業界の発展に携わってくれるはず。リニューアルされる広島競輪場で、きっとお目にかかれる日が来るだろう。▶︎前編はこちら
netkeirin特派員
netkeirin Tokuhain
netkeirin特派員による本格的読み物コーナー。競輪に関わる人や出来事を取材し、競輪の世界にまつわるドラマをお届けします