2021/04/07 (水) 12:00 7
前回のコラムでは守澤太志(35歳・秋田=96期)が、かつてよく暴れるレーサーだったと書いた。失格や落車が伴ってはいけないのだが、それはやはり紙一重。競輪は戦うことが前提である以上、避けられないものである。内藤秀久(39歳・神奈川=89期)もまたその道を歩む一人だ。横を通ることは至難の業。
もともと内藤のホームバンクは「花月園競輪場」だ。2010年に廃止になり、川崎に移った。花月園ではいつも師匠の冠レースである「伊藤繁杯」が行われていた。伊藤繁は21期の伝説のレーサーだ。その師匠の前で、闘志あふれる、いや、あふれ過ぎる走りを見せていた。
激しかった。若かった。
内藤が自力を出すことを卒業し、自在に戦うことも見切り、マークで売り出すころ。奥歯をかみしめながら戦っていた。上に上がるには、“神奈川、南関で認められる選手になるには”と泥水をすする思いで頑張っていた。
内藤が成長するには長い時間を要した…。
失敗の方が多かったと思う。あふれる気持ちが裏目に出ることも多く、不安定な戦いぶりだった。GIの決勝には2014年名古屋ダービーで、進出した。
だが、そこで地位を確立し切れず、もどかしい戦いを続けてきた。
殻を破ることになったきっかけは川崎で全日本選抜が開催されると決まったことだろう。丁寧に、一つの目標を達成しようとした。「郡司の後ろは内藤」と思われることだ。郡司の後ろでどう走るかをイメージし、自分を作り上げることでひと回り大きくなった。
2020年は郡司浩平(30歳・神奈川=99期)との連係も多く、6月取手記念(水戸黄門賞)、7月いわき平競輪場でのサマーナイトフェスティバル、8月名古屋競輪場でのオールスターと決勝に乗るなど、内藤の味が着実にじみ出てきた。
全日本選抜初日の3着強襲が、一つの集大成だった。落ち着いて、静かに強襲した。以前なら強引にコースを作っていたところ。“流れに逆らわない”。これが内藤という戦法の行き着いた先だ。かつて、競るなら競る、3番手を回るかどうか、目標がない時に自分で動くか…。悩み抜いていた時がある。
その時に「内藤という戦法を確立したい」と話した。
しかし、そう話した時はまだブレていたと思う。完成形が見えていないからこその、「言葉」だった。どんな選択でも、“内藤が決めればそれが内藤だ”と誰もが思うようになること…。気負っていた。
だが現在、肩の力が抜け、レースでの安定感が生まれ、自ずから番組の中での役割がはっきりしてきた。準決勝で落車という結果は残念だったが、これは仕方ないもの。復帰後の松阪ウィナーズカップでも骨折後とは思えない走りだった。すべてに成長した。
川崎記念に冠する「桜花賞・海老澤清杯」のタイトルは、特別なものがある。
無論、郡司が本命中の本命だが、その後ろにいて、つかみ取ることができるか。初日からの流れを見極めたい。
川崎の記念開催は2017年からナイターへと移行した。その時は「ナイターでは記念は売れない」と酷評する関係者もいた。確かに、最初は厳しい数字でもあった。だが、この川崎の挑戦が現在のナイター時間帯のファンの掘り起こしにつながったことは間違いない。
未だコロナ禍は厳しい状況だが、今回はファンの入場も可能だ。適切な対応を行い、多くのファンの前での熱戦に期待したい。
Twitterでも競輪のこぼれ話をツイート中
▼前田睦生記者のTwitterはこちら
前田睦生
Maeda Mutuo
鹿児島県生まれ。2006年東京スポーツ新聞社入社、競輪担当として幅広く取材。現場取材から得たニュース(テキスト/Youtube動画)を発信する傍ら、予想系番組やイベントに出演。頭髪は短くしているだけで、毛根は生きている。