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【別府競輪・ミッドナイト】松井秀喜5打席連続敬遠をベンチから見ていた宮崎一彰

2022/02/11(金) 11:45 0 5

別府競輪のミッドナイト「Kドリームス杯(FII)」は10日、2日目を開催。最終日6Rに出走する宮崎一彰はプロ野球選手などを経て競輪選手に転身。その波瀾万丈な人生の一部に迫った。

日本球界“初の逆輸入選手”と呼ばれていた宮崎一彰

 99期生として2011年の1月にデビューした宮崎一彰。昨年12月の地元戦では1、2班戦初Vを飾った。読売ジャイアンツと西武ライオンズに在籍した元プロ野球選手だったのは有名な話だが、野球人の中でも異色な経歴を持つ。今回はその一部分にスポットライトを当ててみた。

 高知県出身の宮崎は小学4年生から野球を始めた。高校は明徳義塾。今では超名門校だが、当時はまだそこまでではない時。ただ、野球に興味がない人でも世間を賑わせた松井秀喜5打席連続敬遠をベンチから眺めていたというのだからビックリだ。

「あの時は2年生で、背番号15。試合前に馬淵(史郎)監督から指示があった。驚きはしなかったけど、(全部敬遠)するんや〜って思いましたね。3年になってレギュラーを獲得できたけど、甲子園には出られなかった。とにかく当時の馬淵監督は若くて厳しかった。今は丸くなったけど、まだイケイケでしたね。走り込みや基礎トレーニングがキツくて、冬場は本当にしんどかった。明徳は山の中にあって、山を12キロとか走らされていた。基準タイムを一人でもオーバーすると、全員がもう一回走らされたり(苦笑)。砂浜も走りましたね。いろいろな経験をしたけど、高校時代が一番キツかったかな。試合に負けると、点差に応じた数でベースランニングもした。真夏にベースランニング110周したこともあった。何人か倒れたんじゃなかったかな。今やったら確実に怒られますね」

 高校野球ファンなら知らない人がいないほど超有名な馬淵史郎監督のエピソード。聞いているこちらがゾッとしてしまうが、名門校の基礎はこうしてできあがったのだ。そして明徳義塾高校卒業後は法政大学、さらには社会人野球の名門・いすゞ自動車へ進んだが、「大学の頃からあまり日本で野球をやりたくないなあって思っていたんです。アメリカの野球に憧れを抱くようになった」。ツテなどなかったが、単身で渡米。ニューヨーク州にある独立リーグのアディロンダック・ランバージャックスに入団した。

「キツかったですよ。貯金を切り崩して行ったし。その秋にモントリオール・エクスポズ(当時)の秋季キャンプにも呼ばれて参加したんです。でも次の年にならないと契約してもらえるか分からなかった。その時に読売ジャイアンツからオファーがあって、入団テストを受けてドラフトで指名してもらった。それで日本に戻ったんです。当時は“初の逆輸入選手”とか呼ばれたのを覚えてます。で、ジャイアンツの後に行った西武ライオンズ時代に、西武園競輪場や競輪の存在を知ったんです。それまで競輪のことすら知りませんでしたから」

 今でこそ逆輸入選手も増えたが、まさかのパイオニアだった。直後にマック鈴木らが同じ道をたどっている。もっとほじくれそうな宮崎だが、今回はここまで。また次に会った際に、アメリカ時代の話や、NPB時代の話も詳しく聞いてみたい。エリートのようでエリートではない。少しずつ花を咲かせる。競輪選手になってからも宮崎の特徴は変わらないようだ。(netkeirin特派員)

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