2021/07/27(火) 12:00 0 27
2012年のロンドン大会、2016年のリオ大会と2度の五輪出場経験を持つ中川誠一郎選手に、当時の思い出、そして東京五輪「自転車トラック」男子ケイリンとスプリントに出場する新田祐大選手、脇本雄太選手とのエピソードを聞いた。かつてナショナルチームの同僚だったふたりへの思いは深く、普段と違ってアルコールを入れることなくマジメモード。コーヒーをすすりながら、大一番を目前にした両者へエールを送った。構成=塩次洋太(大阪スポーツ)
ーー当インタビューも第3回目となりました。編集部によると第2回も好評で、かなりのアクセス数があったそうです。中川選手は“数字を持っている男”として認知されていますよ。
そうですか。それなら、もし「netkeirinカレンダー」とかがあったら1月か12月を単独で任せてもらえそうですね。もう本家からはお呼びがかからないと思うんで(笑)。
ーー反響はありましたか?
高松宮記念杯のとき(佐藤)慎太郎さんから「あれ、面白いな〜」って言われたのと、清水(裕友)がふらっと来て「よかったっす。ガルベス(上田尭弥)をいじっておきました」って。あとは同期の大槻(寛徳)が「何であんなに上からなんだ。東口(善朋)をいじりすぎだぞ!」と笑いながら話しかけてきました。
ーーそういえば先日、編集部が新田祐大選手にインタビューした際にも「誠一郎さんのやつ面白いですね」と話していたそうです。
新田が(笑)。天下のS級S班3人から太鼓判があれば堂々とできますね。なかなかコアなところが食いついてくれました。
ーー仲のいい脇本雄太選手からは何か?
ワッキー(脇本)は無かったです。仮に読んだとしても今さら改めて何かを言ってこないでしょうし。今は本番を前にちゃんとしているから。
ーーその新田選手と脇本選手が東京五輪に出場します。今回はオリンピアンの中川選手にいろいろとエピソードをうかがいます。
今回に限ってはアスリート目線で言わせてもらいますよ。今までここで話をしてきたようなテイストじゃなくなりますが大丈夫ですか?
ーーもちろんです。五輪に2回出場している中川選手の証言は貴重なものです。まずは、ご自身が五輪を目指したきっかけから教えてください。
そもそも、自分は競輪選手になりたくてなったわけではなくて。小さいころからカール・ルイスとかを見ていて憧れが強くて“オリンピックに出たい”と思っていました。もし出られるのなら陸上じゃないかと考えて高校の途中から始めましたが、そんな安易な思いはあっけなくついえました。
ーーどういうことでしょう?
あの末續(慎吾)さんがいたんですよ。1個下で面識はないけど陸上の熊本県大会とかでよく見かけていて。高校のときから次元が違いましたもん。あんな人を見たら心が折れる。これが超一流なのかと潔く諦めた。ちなみに末續さんは荒井(崇博)さんの友達です(笑)。
ーー心の折れた高校生がどうして競輪選手へシフトチェンジしたのでしょうか。
競輪選手だった叔父(瀬口孝一郎)から「自転車でもオリンピックを目指せるぞ」と言われたんです。手段として自転車を選んだわけです。これがオリンピックへの原点。
ーー五輪に出場するためにはナショナルチームに選ばれることが前提となります。
選手になって3年目ですか。九州の地区プロで1000メートルを優勝して中野(浩一)さんから声をかけてもらいました。シドニーが終わってアテネを目指していたとき。ケイリンでは太田(真一)さん、チームスプリントは伏見(俊昭)さん、長塚(智広)さん、(井上)昌己たちのころです。
ーー当時のナショナルチームはかなり個性的なメンバーがそろっていたと聞きます。
堤(洋)さん、(渡邉)晴智さん、小野(俊之)さん、金子(貴志)さんとか。あと(加藤)慎平さんもいたんですよ。確かにパンチが効いている濃いメンバーでした。
ーー加藤慎平さんが在籍していたのですか? まったく競技の匂いがしませんが…。
いました、いました、ほんの一瞬でしたけど。一度だけ一緒にオーストラリア合宿へ行きましたが、監督のゲーリー(ウエスト)から「体重を減らせ! 」と毎日言われていたみたいで。それがストレスとなって、隠れてお菓子を食いまくっていました(笑)。
ーー慎平さんらしい珍妙なエピソードですね。
結局、最終日の体重測定で2キロオーバーしてしまい、帰りの飛行機の中でゲーリーから「好きな中華料理を止めるか、今すぐナショナルチームを辞めるかどっちか選べ!」とすごまれていました。そこで慎平さんは、迷うことなく中華料理を選んでチームを去っていきました。
ーーこれだけのメンバーを調整するのには、まとめ役が必要ですね。
そこはやっぱり長塚さんでした。長塚さんの1走目は世界一でしたし、そこへ誰が付いていけるかってところで。昌己が選ばれたのもスタートが良かったから。アテネは長塚さんありきの銀メダル。競輪関係の特集で「長塚さん」ってワードがこれだけ出るのも久しぶりじゃないですか。
ーーそのころ、中川選手は色々と複雑な思いを抱きながらチームに帯同していたと聞きましたが。
やさぐれていたんですよ。ひとつは昌己へのジェラシーですね。同級生でお互いにGIに出始めたときで。だけどナショナルに行けば、あっちはスタメンでこっちは補欠でしょ。しかも、そのあとにアテネでメダルは取るわ、GI(2006年・花月園「オールスター競輪」)は取るわで我が世の春を謳歌しているわけですよ。だから、会うたびに「昌己はいいじゃん」ってセリフをずっと吐いたりしていて。イヤミなヤツでした、オレ(笑)。
ーー確かに器がおちょこ並みに小さいと思ってしまいました。
さすがに今は言いませんよ。まだ言っていたら完全におかしいヤツでしょう。昌己からも「最近、あれ言わんくなったね」って。「前はずっと言いよったのに」とかいじられます。
ーー補欠だったとしても大会に出場する機会は与えられていたわけですか?
ありました。でも、オレはゲーリーと合わなかったから、そこまで前のめりになれなかった。ワールドカップで南アフリカに行ったときケイリンに出してもらったのですが、予選と敗者復活ともに負けて終了したんです。2日かけて現地に行って開始30分でおしまい。そのときゲーリーが何て言ったと思います? 「Are You Sleeping?」ですよ。“競走中、寝てたの? ”ぐらいな勢いで。ムカつきすぎて、残りの日程は会場にも行かず、ずっと部屋でヤケ酒してました。
ーー「競走中、寝てたの? 」は、競輪においてもよく見かけるシーンですね。ますます、器の小ささを疑ってしまいます。
いやいや、俺には合わなかっただけで、ゲーリーってすごい人だったんです。日本のあとにオーストラリアでコーチをやって強いチームを作り上げたりして。そうだ、ロンドンのとき選手村で再会したんだ。「強くなったね!」と言ってもらえて、その一言でわだかまりは消えました。ワタクシ大人でしょ? 器はデカい(笑)。
ーーアテネのあとは北京を目指します。そのときの立ち位置や心境の変化は?
北京は最後の選考で漏れました。年齢は30歳になるちょっと前でさすがにきついとなった。当時、30歳を超えた自転車競技者ってほとんどいなかったですから。あと、今にして思えばナショナルチームそのものの過渡期だった気がします。
ーー過渡期とはどういうことでしょうか。
あのころのナショナルチームってまだガチなアスリート集団じゃなかったんですよ。どうも競輪の延長的なところがあって、強い選手がとりあえず海外へ行って軽くレースもしてきます、みたいな雰囲気があった。だけど北京、ロンドンと続いていくうちに段々とアスリート化していった。監督が(フレデリック)マニエに変わったあたりです。
ーーチームから一旦は離れましたがロンドンへ向けて復帰しました。どういった意図があったのですか?
妹(中川諒子)がナショナルチームに入っていて「一緒にやろう」と誘ってきたからです。「チャレンジ・ザ・オリンピック」という記録会に行ったら200メートルのハロンで10秒1とか出たのかな。1位か2位をパッと取って合格と言われました。
ーー年齢を含めて再チャレンジすることに不安もあったでしょう。
そのころ、松本整さんの体制だったんです。整さんってGI優勝の最年長記録を持っていたり、年を重ねてからもずっと第一線でやっていたじゃないですか。だから、年寄りに優しかったのかもしれません。中堅やベテランの伸びしろがわかる方でしたから、オレ的には合ったんです。
ロンドンのときは33歳でしたが、上はもう(クリス)ホイ先輩と(シュテファン)ニムケ先輩のふたりしかいなかった。リオのときなんか37歳で自転車競技じゃ最長老でした。短距離部門では最年長記録レベルじゃないですか。選手村でコーチと間違われたこともあったし。
ーーブランクを感じずにスムーズに順応できましたか?
それが…あくまで妹の保護者的な軽い気持ちで参加したから、新田や(渡邉)一成との温度差がすごかった。オレのぬるめな姿勢に一成は何か言いたいけど言えないっていう。4歳年上でよかったですよ(笑)。だからオレがチームを辞めたあと、ワッキーから「北日本合宿みたいになってます(笑)」ってよくメールがきました。
ーーようやく、最近のナショナルメンバーの名前が出てきましたね。新田選手とはロンドン大会でチームスプリントに出場しています。
そうですね。前回は残念な結果に終わっているので、今回はその分までも取り返してきてほしい。新田にしか通じないようエールを送ると「今回はスタートがないから安心して金メダルを取ってね! 」って感じですか。新田なら分かってくれるはずです(笑)。
ーー先ほどの温度差の話ですが、新田選手と中川選手の違いとは何だったのでしょう。
調整方法や取り組み方ですね、本番への持っていき方とか。俺とワッキーはいつも通りやっていて5、6分前に集中すれば力を発揮できるって競輪側の発想。新田は試合までは集中していたいタイプ。だから遠征先に着いたらすでに本気モードに入っていてすごくマジメです。
だからといって求道者ってわけでもないんですよ。最終日の打ち上げではめちゃくちゃ飲んで陽気。そのときだけはアスリートじゃなくなるんです。あのオン、オフの分け方は真似できない。
ーー脇本選手とは四六時中、一緒にいたそうですね。
昔と違って遠征に行っても誰も酒を飲まないんです。オレはアスリート寄りじゃない競輪選手側の遺伝子を引き継ぐラストサムライだったからそれが物足りなくて。いつもメカニックチームの人たちと車座になって晩酌していました。そこへワッキーが現れた。
ーー同じ匂いを感じた?
ワッキーは先入観もなく、免疫ゼロでナショナルチームに入ってきました。オレを見てアスリート集団の中に何かひとり競輪選手っぽいのがいるなと思ったのか、自然とこちらに寄ってきた。オレがいなかったらもっと早めにアスリート、アスリートしていたと思います(笑)。
ーー競輪場などでも、ふたりはいつもじゃれあっていますね。年齢の差を感じさせない仲の良さは、非常に怪しい間柄に見えます。
お互いにゲームと酒が好きで、趣味や嗜好が合った。遠征先でも運営側が部屋割りに気をつかってくれて、ほぼ同部屋だったんです。夜中まで酒を飲みながら通信ゲームをしてオレが寝落ちするのが日常で、コーヒーやパブ、買い物とどこへ行くのも一緒でした。
タメ口だけど、別にオレもそういう上下関係は嫌いじゃないから受け入れられた。たまに調子に乗っているときは「おい、オレは10個年上やぞ」と言ってやる。そうすると「でしたね、すいません」って。これがいつもの1セット。だけど、5分後にはまたタメ口に戻っている(笑)。そんな人懐っこいところがワッキーの魅力です。
ーー大会を目前にしたふたりに伝えたいことはありますか?
世間的に中止の意見もありましたが、競技者からすれば4年間やってきたことを発表する場がほしいんです。4年かけてやってきたことを見せる場が与えられたわけだから、大事に走ってきてもらいたい。
新田とワッキーは元・同僚、現・友人として金メダルを取ると信じています。他の出場する選手たちも悔いのないように発表してきてほしいです。やっぱり原点はオリンピック。もう隠居の身ですが、自分もオリンピアンとしてのプライドや誇りをずっと持っているし、後輩たちを心の底から応援しています。
ーー今回は締まった話をありがとうございます。次回はいつも通りのほろ酔い状態でお話をうかがいます。あと、質問メールもいくつか届いていますので、その辺りもお答えください。
肩肘を張った話は自分も苦手ですので、ぜひぜひ。何か聞きたいこととかがあれば、危ない話以外でしたらお答えします。