アプリ限定 2025/04/16 (水) 12:00 22
24年6月末に引退したガールズケイリン2期生の猪子真実さん。自転車競技未経験から30歳で競輪界を志し、12年間の現役生活を送った。代謝制度で引退する直前にはガールズケイリン最高配当“144万車券”を演出し話題に。引退後は『日本選手権競輪(GI)』のアンバサダーに就任し、ダービーのPRや予想番組への出演などで活躍している。(取材・構成 netkeirin編集部)
まもなく開幕する名古屋競輪『日本選手権競輪(GI)』のアンバサダーに就任した猪子真実さん。2024年6月に代謝制度で12年の現役生活に幕を下ろしてから、もうすぐ1年が過ぎようとしている。現役時代と変わらぬスタイルで競輪場に現れた猪子さんに、近況を聞くと…。
「ほとんど自転車には乗らなくなりました(笑)。急に運動をやめると体の変化も気になるので、ボクシングジムに通っています。現役の間はケアが大事だったので自転車以外のスポーツからは遠ざかっていたけれど、今はゴルフや釣りなどアクティブな趣味も楽しんでいますよ」
その明るい笑顔も現役時代と変わらない。引退後は中部の競輪場でインタビュアーや予想会を行うなど、競輪関係のイベントに引っ張りだこだ。
「ありがたいことに競輪関係のお仕事をさせてもらっています。予想は難しいですね。とくに男子のレースは、練習仲間の成績や無事を知るためには見ていましたが、レース展開を意識したことはなかったので…。ゼロから勉強中という感じです。こんなに予想が大変なものだとは(苦笑)」
バンクの外から競輪を見るようになり、新しい魅力に気づいたという。
「もともと一宮競輪場で働いていて、“競輪かっこいいな”と思って選手になったのですが、現役時代は必死すぎて周りを見る余裕がなくて…。今はこうしてダービーを盛り上げる立場になって、競輪は面白くてかっこいいと改めて感じました。もっといろんな人に知ってほしいし、こうして応援できて幸せだなと感じます」
3月の名古屋記念では、地元のベテラン・山内卓也と笠松信幸が決勝に駒を進めた。猪子さんはこの期間、場内で予想会のイベントに出演していた。
「ベテランの二人が決勝に乗って盛り上がったし、緊張感も伝わってきました。二人の連係を見られたのも嬉しかったし、いろんな人に刺激を与えたはずです。きっと二人の思いが、若手をはじめたくさんの選手に届いたんじゃないかな。引退してから選手へのリスペクトの気持ちがより大きくなりましたね」
笠松は猪子さんの師匠でもある。猪子さんは社会人を経て、31歳のときにガールズケイリン2期生としてデビューした。ガールズケイリン挑戦を決意したのは30歳のときだ。
「もともとかばん屋で店長をやっていたんです。並行してネイルの資格を取り、転職したタイミングでガールズケイリンが始まりました。迷いましたが、やらなきゃ絶対後悔すると思った。前に勤めていたお店が、選手を目指すにあたって練習しながら働けるよう協力してくれたので、競輪学校に合格するまで練習と仕事を両立させることができました」
もともとは趣味でロードレーサーに乗っていたという猪子さん。それを知った笠松に合宿に誘われ、前後で1000メートルのタイムを計ったところ20秒も記録が縮まっていた。
「そのとき競輪学校の合格タイムを聞いたらあと10秒くらいだったので、もしかしたらいけるんじゃないか?って。そうは言っても30歳を過ぎていて働かなきゃいけないし、そういう生活を長くは続けられないので、1回受けてダメなら諦めるつもりでした」
当時、すでに競輪学校に入学していた1期生の顔ぶれも、猪子さんの挑戦を後押しした。
「私と同い年の加瀬加奈子、藤原亜衣里、中村由香里の名前があって、私と同じ未経験の人たちもいた。ソフトテニス出身の山口菜津子ちゃんもいて、もしかしたらチャンスがあるかもって」
決意を固め両親に競輪選手になりたいことを伝えると、驚いていたという。
「両親はびっくりしていましたね(笑)。でも私のやりたいことに反対するようなタイプではないので、送迎など協力してくれました。感謝しています」
一方で、まだ始まっていない未知の『ガールズケイリン』に足を踏み入れることに不安はなかったのだろうか。
「私はあまり先のことは考えず、やりたいことをやるという信念で。賞金のことも考えていなかったと思う。プロスポーツの世界で生きていけたらいいなという思いでしたね」
そして、親交のあった笠松に弟子入りした。アマチュア時代、街道練習の定番コースは“二之瀬峠”で、岐阜と三重にまたがる過酷な峠道は東海地方の有名なヒルクライムコースとして知られている。
「私にはめちゃくちゃしんどかったです。登りがきつくて、握力がおかしくなるくらいでした。1日に2往復したこともあって、師匠は『そんなの全然当たり前だろう』って言うんですけど、周りの選手には驚かれましたね。笠松さんって普段はすごく優しいんですが、自転車に対しては厳しかったかもしれないです」
競輪学校の試験まで5か月間、バンクではタイムを出す練習に励み、ロードトレーニングでは自転車との一体感を養った。当時はまだガールズケイリンの機材の規格もきまっておらず、その間、師匠の笠松が猪子さんのために情報を集めてくれていたという。猪子さんは無事に試験に合格し、2期生として競輪学校入学が決まった。当時、一宮では唯一の女子選手だった。
「それまで男性しかいなかったので設備がなくて、狭い給湯室で着替えたりしていました。でも私は少年野球チームに入っていたので、女性ひとりという環境はへっちゃらでしたね(笑)」
競輪学校を在校成績14位(18人中)で卒業し、2013年に選手デビュー。過酷なロードトレーニングで鍛えた地脚を武器に健闘した。しかし選手数が増えるにつれて成績を残すことが難しくなっていった。
「最初の頃は一般戦では自分で動けていたけど…。脚がないなかでも、なんとかして上位に食い込めるように、位置取りを考えて走っていました。すごく強い選手の後ろにいてもついていけなかったら意味がないので、仕掛けたときについていける選手の後ろとか、前から2番目が取れるようにとか。どうしても人任せな部分があるので、一瞬の判断ミスですべてがダメになる。展開が向いたときにモノにできるように、欠かさず練習していました」
2015年、まだ選手数の少ないガールズケイリンでも、代謝制度が始まった。3期連続(1年半)で競走得点47点を切ってしまうと成績審査対象となり、3期の平均競走得点下位3名が強制引退となる。
「代謝制度は最初から他人事ではなかったですね。私は学校時代から成績は良くないし、年齢も高かった。『生き残っていかなければ』と思いました」
代謝のピンチは何度も訪れた。そのたびに持ち前の判断力を活かし、“クビ”を免れた。ガールズケイリンでは、期末に競走得点47点の成績が取れると審査期間がリセットされ、新たに1年半の現役生活が保証される。
「それができたのは、私が2期生だからだと思うんです。私たちには代謝制度が始まるまで猶予があったから、レースに慣れる時間があった。だからいつも通り走って、リセットに持ち込むこともできた。もっと遅くにデビューしていたら、私はストレート代謝になっていたと思います」
近年、ガールズケイリンではデビューから1年半で強制引退を余儀なくされるケースが目立っている。
「最近デビューした選手たちは、レースに慣れる前にクビになってしまったり、落車してクビになってしまう子もいる。そういう選手がいたから自分が12年も選手をやれたというのももちろん理解していますが、そういう選手を見ていると“どうにかならないものか”と感じました」
ピンチをしのぎながら現役生活を続けてきた猪子さんだったが、2022年は1年に3度の落車に見舞われた。
「それまでは一度転んでもすぐ忘れられたけど、1年に3回続いたときは“こんな簡単に転ぶのか”と怖くなってしまいました。混戦でも落ち着いて対応できたのが、転ぶかもしれないという恐怖がよぎって車間を空けてしまったり…。それが結果的に命取りになりました」
2024年前期、猪子さんの競走得点は45点台まで落ちており、すでに“首の皮一枚”という状況だった。
「最後の期に入った時に、もう次だなというのは感じました。事故が続いていたのと、腰痛もあって40歳を過ぎてからは体がしんどくなっていた。同世代で強い選手もいるから年齢を言い訳にしちゃいけないんですが…」
生き残ることを諦めたわけでは決してない。しかし、度重なるケガを経験して五体満足でいられている奇跡も知った。
「元気なまま選手を引退できるなら、それが一番いいのかなと。以前のように『死にもの狂いでやって生き延びたい』というより『もう悔いはない』というスッキリした気持ちでした。それでもチャンスが巡ってきたら1着を取れるように、毎日練習していました」
そんな覚悟とともにあった24年前期。クビが間近に迫っても、いつも通り練習してレースを走った猪子さんに“ご褒美”が待っていた。5月22日、青森競輪最終日の一般戦だ。
「私は(加藤)恵ちゃんについていくと決めて、様子をうかがっていました。恵ちゃんとカトマイ(加藤舞)が並走になったときに怖いので内に降りた。そのあと接触があったみたいだったけど私には見えていなくて、先頭を走っていた(浜地)晴帆が外帯線を外さないかずっと見ていた。それしか1着を取る方法はないので」
そして最終4コーナーの出口、浜地が一瞬外帯線を外したのを、猪子さんは見逃さなかった。
「脚は余裕があったので、よし、と思って突っ込んでハンドルを投げました」
猪子さんは浜地を差して1着入線。手応えはなかったという。
「私、何着だろう? と。それよりも審議になっていたのが気になって、自分じゃないかドキドキしていました」
検車場に戻ると、仲の良い奥井迪が涙ぐんで待っていた。
「確定が出て、私が1着で。しかも3連単は144万円で驚きました。みんなが声をかけてくれて、クビになる前に何か残せたというのがよかったなと思いました」
このレースの3連単144万5,400円という配当は、ガールズケイリン史上最高記録だった。
「落車もなく高配当が出せたのがうれしかったですね。レース後には優勝したかのように連絡がいっぱい届いていて、なかには『当てたよ』という人も。もう引退だから、記念に応援車券を買ってくれた人がいたんですね」
“チャンスが来たとき、モノにできるように”。そのために欠かさず練習してきた。あの瞬間の一瞬の判断は、日ごろの練習が実を結んだものだ。
「意外とハンドル投げは得意なんです(笑)。あの場面で内に行けたのは、練習の成果。いい展開の時にちゃんとモノにできるように毎日練習していて、練習しなかったらそのチャンスもつかめないですから。自分の中ではもう代謝になるとわかっていながらも、そこまで調子は悪くないという感覚があったので…。自分だけがそう思っていたんですけど」
憧れ、努力でつかんだプロスポーツ選手としての道。ガールズケイリン選手になる夢を叶えてからは苦しいことのほうが多い12年だったが、あきらめず鍛錬に励み、それが報われた瞬間だった。
「ガールズケイリン選手になってから、私にはなにも語れることがなかった。大きな声で言えるような立派な成績もないし、特徴のない選手だった。でもこの1着で選手としての話題が作れたから…神様がプレゼントしてくれたような、そんな気がします」
引退直前に絶大なインパクトを与えた猪子さん。ラストランは6月26日、豊橋競輪で迎えた。その前検日、まさかのアクシデントが起こった。
「競輪場に着いて、ハードケースを持ったらぎっくり腰になって動けなくなっちゃって…」
1着を取ったレースにも表れていたように、猪子さんの調子は決して悪くなかった。ラストランで1着を取ろうと意気込み、練習にも熱が入っていたという。ラストランを欠場しては、一生後悔が残るだろう。
「ラストランじゃなかったら絶対帰っているレベルの痛みでした。でも吉田敏洋さんと鰐渕正利さん、林敬宏くんが『自転車組んでやるわ』って言って準備を全部やってくれました。歩けない私を加藤恵ちゃんがおんぶして運んでくれて、石井寛子ちゃんと日野友葵ちゃんは置き鍼やオイルマッサージをしてくれて…。最後だからみんな応援に来てくれるし、もう死んでも走らないかんと思って」
絶体絶命のピンチだったが、周りの選手が敵味方関係なく、猪子さんがラストランを走れるようにと手を差し伸べた。歩くこともままならなかったというが、初日の指定練習で恐る恐る自転車に乗ってみると、自転車の体勢のほうが楽で問題なく走ることができたという。
「初日のレース後にお風呂に行って、腰を伸ばしたら良くなって。普通に歩けるようになったんです」
クビが決まっていても毎日練習に励んだ猪子さんに、これも“神様からのプレゼント”だったのだろうか。奇跡的な回復で、最終日まで乗り切った。最終日一般戦は“あわや”と思わせる好レースだった。
「最後はね… 悔しかったですね。もうちょっとできたんじゃないかなって…。まさか黒河内が補充で来るとは(笑)」
最終日に一般戦出場メンバーの誰よりも競走得点の高い黒河内由実が補充参戦し、1着となった。その勝利者インタビューに猪子さんも呼ばれ、豊橋に足を運んだファンの前で最後の挨拶をした。
「たくさん応援してくれる方が来てくれて、いっぱい声援が聞こえたので、みなさんの前に行きたいと思って競輪場の方に話してみたら、あのような場を作ってくれました」
豊橋の勝利者インタビューは金網の外で行われるため、とりわけファンとの距離が近い。猪子さんが直接ファンへ感謝を伝えると、場内のファンからねぎらいの声が届いた。ピンク色のタオルで涙をぬぐいながら、トレードマークの笑顔で別れを告げた。
悔いなく12年間の選手生活を完走した猪子さん。輝かしい成果を挙げることができなくても、厳しい練習を続けられたのはなぜなのか。
「環境がよかったのが一番だと思います。バンクに行けば練習仲間のみんながいて、愛知は男子選手たちが率先して『前で駆けてやるからついてこい』と言ってくれる。吉田敏洋さんのようなスター選手もですよ。それから疋田(敏)さんや高野(輝彰)さんがバイクで引っ張ってくれたり、練習に協力してくれていました。私が弱かったから付き合ってくれた部分もあるかもしれないですが、代謝になるとほぼわかっていてもみんなが『まだいける、まだいける』と支えてくれた。私ひとりだったら絶対ここまで生き残れませんでした」
愛知のガールズ選手のなかでは一番古株だった猪子さん。愛知支部は名古屋でも豊橋でも積極的にプロ選手を育成しており、たくさんの後輩ができた。
「ガールズの選手数が増えて、女子だけでも練習できるようになりました。昔は男子選手についていくなんてありえなかったけど、今は普通についていく選手がいる。女子のレベルが上がって活躍できる選手が増えたことで、一目置かれるようになったと思います」
実際にこの日名古屋競輪場にいた選手たちは、男女関係なく声をかけあい、協力して明るいムードのもと練習に励んでいた。
「愛知の選手はガールズ選手を尊重してくれているのを感じます。同僚としてお互いの活躍を喜んで、和やかでいい関係が築けていると感じていました」
社会人を経て、競輪界に足を踏み入れた猪子さん。“ガールズケイリン選手”という職業に胸を張る。
「大人になってから始めてもプロになれる競技は珍しいと思うので、プロスポーツ選手として生きていきたい人には絶対いい職業だと思います。賞金も魅力的だし、夢のある仕事だと思う。ただケガがつきものなのと、ずっといい状態でいるのは難しいので、トレーニングや治療など探求心のある人のほうが向いているかもしれませんね」
競輪選手になったことで、周りの人間関係も一変した。それまでは年齢の近い友人が多かったが、選手として出会うのは年下ばかりだった。
「選手になってよかったのは、仲間が増えたことですね。年下の女の子たちと選手仲間として出会って、今は友達として付き合っている子がたくさんいます。インタビュアーとして競輪場に行くと、『1着取ってマミさんのところに行けるようにします』と言ってくれるのでうれしいです」
今は金網の外から、競輪界を見守る。現役を退いて知った競輪選手の輝きを、もっと選手に知ってほしいと語る。
「引退して強く思うのが、競輪選手はすごくかっこいいんだということ。だから選手たちにはもっとプロとして誇りを持ってほしいと思います。自分が選手のときは気づかなかったことだけど、外から見たらとても華やかでかっこいい。私はもう二度と走れないけど、選手たちが命がけで戦う姿に勇気をもらっています」
もしも過去に戻れるなら、またガールズケイリンの道を選ぶのか? 聞いてみると、猪子さんは笑顔で即答した。
「はい。もっと若いときから、20歳くらいからやりたいですね。できることならずっとやりたかったくらい競輪が好き。60歳までできるスポーツはほかにないですし、本当に魅力的な競技だと思います」
選手としては引退となったが、猪子さんは今も競輪に関わる仕事を続けている。4月29日に名古屋競輪で開幕する『日本選手権競輪(GI)』のアンバサダーに就任し、各地の記念競輪に足を運んでGIをPRしている。
「やっぱり競輪は生観戦が一番楽しいと思います。レースは面白いし、選手はかっこいい。大声で応援したら気持ちいいですし、走行音や選手の体つきと息遣い、そしてGIならではの緊張感を間近で感じてほしいですね」
ダービー開催中には猪子さんプロデュースのトークショーも行われる。また、切磋琢磨してきた愛知支部の仲間たちも、レースとイベントで中部全体を盛り上げようと気合が入っている。
「レースもイベントも地元選手たちが盛り上げてくれるはずです。私も本場でお待ちしていますので、ぜひゴールデンウィークは名古屋競輪場にお越しください!」
地元・愛知の仲間たちへの感謝を胸に、猪子さんは現役時代と変わらぬ明るい笑顔で“名古屋ダービー”を盛り上げる。
netkeirin編集部
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