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Reborn リ・ボーン ー第二章の男たちー

【北井佑季】道を変えたとしても…! “一流になりたい気持ち”をあきらめられなかった/2つのゴールを知る男・前編

アプリ限定 2023/10/24 (火) 18:00 111

競輪界には異色の経歴を持つ選手たちが多数存在している。この連載コラムではキャリアを再起動させ、競輪を舞台に戦い続ける“第二章の男たち”の過去と現在に迫る。記念すべき第1回はJリーガーから競輪選手へと転身した神奈川所属の119期・北井佑季。スタジアムとバンクーー。“2つのゴールを知る男”の物語を【前編・中編・後編】に分けてお届けする。

北井佑季|33歳・神奈川=119期(photo by Kenji Onose)

落胆することが苦手な性格

 北井佑季は3歳でボールを蹴り始めた。地元のクラブでサッカーに打ち込み、小学5年から中学3年の間は横浜F・マリノスのジュニアユースでプレー。ユースへの切符を手に入れるため、懸命に汗を流す日々を過ごしたが、セレクションで落選。ユースへの道は絶たれることとなった。北井は懐かしそうに笑みを受かべながら当時を振り返った。

「念願叶わずの悔しさはありましたが、気落ちすることはありませんでしたね。違う道から日本のトップ選手になろう、チャンスなんていくらでもあるはず、と切り替えていました。僕は“落胆が苦手”というのか、もうダメだ…と考えることができないタイプの人間です。これは当時も今も変わらない性格かもしれません」

 その後、神奈川の強豪・桐光学園に進学した北井は2年時にレギュラーの座を獲得。全国大会に出場し、ベスト8の成績を残した。高校卒業すぐのプロ入りを希望するも契約はなく、北井は近畿大学に進みプロの道を模索した。そして大学2年時、FC町田ゼルビアから声が掛かりチームへ加入。大学は中退した。以降、松本山雅FC、カターレ富山、SC相模原と4つのチームを渡り歩き、プロサッカー選手として9年間プレーした。

サッカー選手時代の“明と暗”

サッカー現役から引退までを振り返る(photo by Kenji Onose)

 サッカー選手・北井佑季の9年間のキャリアには“明と暗”が存在する。

「サッカー選手として充実していたのは2012年、13年あたりです。町田ゼルビア所属最後の年となる3年目から松本山雅に移籍した1年目にかけての時期は良かったですね。試合でしっかりと自分のパフォーマンスができ、チームにも貢献できていたように思います。でも移籍2年目、僕は出場機会を失っていきました」

 北井が移籍して2年目、当時の松本山雅はJ2からJ1に昇格するかしないかの時期を迎えており、戦力強化の方針のもとチーム補強を推進していた。

「2014年シーズンでチームは2位となり、2015年シーズンのJ1昇格を決めたんです。チームに活気があり、勢いがある状況の中で自分自身は試合に絡むことさえできず。この環境というか雰囲気そのものが、それまでの僕のサッカー人生で味わったことがない“苦しいもの”でした」

 松本山雅がJ1に乗り込んだ2015年、北井は出場機会を求め、レンタル移籍という形でカターレ富山へ。J1昇格というチーム史に残るような時期を過ごしながら、そのチームを離れることになった。

「試合に出られなさそうだからカテゴリーを下げる、という判断がとても悔しかったですね。でもプロ選手は試合に出場しなければ始まりません。富山で活路を見出すつもりで切り替えて臨みました」

 落胆することが苦手な性格に加えて、一度決めたら粘り強く挑戦するのがモットー。北井は向上心を絶やさずに富山のフィールドで結果を求め続けた。毎試合出場しチームに貢献するも、チーム状況や方針転換も相まって4年目には契約更新がなかった。

 その後、地元神奈川のSC相模原に移籍。シーズンスタートとともに鬱憤を晴らすかのごとく3試合連続ゴールを記録するも、シーズン後半には出場機会を逸していく。わずか1年でSC相模原との契約が更新されないことが決定。北井はあきらめず合同トライアウトに参加したほか、納得の行くプロ契約を模索し、タイにまで足を運んだ。

「タイのクラブでも良い契約には巡り会えませんでした。そのとき、僕は29歳。 “どうにかこうにかサッカーを続ける”そんな選択はできたと思います。でも『日本のトップ選手になりたい』という目標を持ちながら選手生活を続けることが、実力的にも年齢的にも難しいと考えました。日本代表になりたいとか一流になりたいといった気持ちを“目標ではなく夢”に感じてしまった。サッカーを続けたとしても、手の届かない夢や理想を遠くに眺めてプレーするような選手人生になるよなって。決断のタイミングだったと思います」

29歳、道を変えてでもあきらめたくない気持ちがあった

引退を決意した時にはすでに次の道への揺るぎない信念があった(photo by Kenji Onose)

 北井佑季は引退を決意したとき、どのくらいサッカーに未練や挫折を感じたのか。やり残した感覚があったのか。それともやれることはすべてやったと充実感を持って区切りをつけたのか。引退時の心境を尋ねた。

「挫折感も充実感もゼロでした。やり残した感もやり切った感もなかったですね。次の道、別の道に情熱を注ぎたい気持ちだけを抱いていました。松本や富山でプレーしていた頃、引退後のキャリアは…、と頭をよぎったことがありました。そこから時間をかけて段階的に競輪選手という職業に興味を強めていったんです。(サッカーへピリオドを打つと同時に)挑戦の時も来たという感じでした。“夢”を追いたくなかった。競技を変えてでもトップ選手になるという“目標”を追いかける生き方がしたかったんです。その一心でしたね」

 目指すゴールは変えるが自分のスタイルは変わらない。変えたくない。落胆する暇があるなら次の道に情熱を注ぎたい。自分が欲するアスリートとしての生き方を貫く。何も終わってはおらず、道は途中だと捉えた。取材冒頭で「もうダメだ…と考えることができないタイプ」と話していたが、筋金の入り方が半端ではない。

「でも挑戦は絶対に1度だけ、と決めていました。妻子がいましたから、僕の気持ちが済むまで何度でも、というわけにはいきません。タイから帰ったのが3月なんですが、養成所試験のための準備に半年もなかったんですよ。1度だけの挑戦なのだから、やれることをすべてやり切る覚悟でした。不安も自信も感じていません。やるしかないとだけ思っていました」

第二章のスタートライン

 決断の時期、北井佑季の家族や友人たちはどう思ったのだろうかと気になった。決意を打ち明けた時に周囲はどんな反応をして、北井にどんな言葉をかけたのか。

「サッカー仲間の反応は面白かったです。『体を使う仕事を考えているのかよ? 休みたくないのか? しかもチャリを全開で漕ぐわけでしょ? ダメだ、理解できん。』という反応が大半でした。競輪の過酷さや(落車といった)アクシデントを知らない友人からは『競輪選手? いいじゃんいいじゃん!』とかなり軽いタッチで応援してくれる人もいましたね(笑)。親からも友人からも反対意見は出ませんでした」

周囲は反対せず、それぞれの表現で応援(photo by Kenji Onose)

 ひとりだけ、奥さんは違う反応だったそうだ。

「当たり前ですが、小さな子どもがいて生活もあるので、妻は軽い感じでは聞きませんでした。実はセカンドキャリアに向き合う際に警察官という選択肢もあったんです。競輪選手なのか警察官なのかを話し合っていた時に、どちらの道に賛成するでも反対するでもなく、一緒に考えてくれました。妻の言葉のニュアンスから本心を想像すると警察官路線を選んで欲しかった部分もあったように思います。僕もフラットな気持ちで相談をしていたし、(競輪と決め打ちせず)警察官になるための参考書を読んだりもしましたね」

 夫婦で相談をしながら、北井は競輪へ挑戦する覚悟を固めていったという。

「警察官になるための参考書を読んでいる間、競輪へ挑戦したい気持ちがどんどん膨らみました。1年以上も無収入になるということ、挑戦するのは絶対に1度だけにすることを伝え、妻の理解を得ました。妻は『やると決めたのなら徹底的にやり切って欲しい』と挑戦することを全面的に応援してくれました。その言葉は嬉しかったし、自分のためではなく、家族のためにもやれることはすべてやろうと思いました」

“自分のためではなく家族のために”の気持ちが芽生えた(photo by Kenji Onose)

 決意が固まり、周囲の後押しも得て、北井は迅速にアクションを起こした。練習に集中し切るために家族とは離れて暮らし、友人との時間は1秒たりとも設けず。プライベートをすべて犠牲にしてスタートラインに立った。そして(同じくサッカー選手から競輪選手に転身した)河野淳吾を介して、高木隆弘に弟子入りを申し出た。

「僕は高木さんの弟子でなければ選手になれていなかったと確信しています」

 北井が人生で一番キツかったという養成所試験までを語り始めた。(中編につづく)

北井佑季「2つのゴールを知る男」公開スケジュール
◆10月24日(火)18時00分【前編】公開
・『道を変えたとしても…! “一流になりたい気持ち”をあきらめられなかった』
◆10月25日(水)18時00分【中編】公開
・『“オールドルーキー”として競輪デビュー 変わったものと変わらなかったもの』
◆10月26日(木)18時00分【後編】公開
・「偉大なるドリブラー達のように…“ひとつだけ”を感動レベルに磨き上げたい」


◆編集後記

 北井選手はサッカー時代から競輪選手への興味を段階的に強めていったらしく、競輪を知る最初のきっかけは2012年にまで遡ります。北井選手の幼馴染のお兄さんが神奈川支部所属の小菅誠選手で、町田ゼルビア所属時に幼馴染から競輪について話を聞いたとのことでした。当時は競輪のルールもライン競走についても知らず、「自転車をめちゃくちゃ速く漕げる選手たちがレースをしている」の印象だけで、公営競技ということも良くわからなかったそうです。

 また、カターレ富山在籍時に住んでいた場所が富山競輪場の真横であり、休みの日にレースを観戦しに行ける環境も競輪への興味を深めていった一因、と教えてくれました。オフシーズンには地元神奈川に帰省し、平塚競輪場にも足を運んだようです。

「平塚競輪で近藤龍徳選手のレースが衝撃的だったんですよね。僕は発走機の横で観戦していたのですが、ゴツイ体型の選手が並ぶ中で、近藤選手の細身体型は際立っていました。サッカー選手かそれ以上に細いかもしれないと思い、どんなレースをするのか興味を持ちました。体型差なんてもろともせずの走りで、華麗に1着をかっさらったんですよ。競輪の深さみたいなところに触れた印象が強く、興味も一層強くなりました。そんなこともあって、デビュー後に開催で近藤選手に会えて、仲良くなれたときは嬉しかったです」

 サッカー選手として好調な時も不調な時も要所で競輪に触れており、ゆっくりとセカンドキャリアについて想像していたという北井選手。第一章・サッカー選手から第二章・競輪選手への道は傍目から見れば大きな転換です。しかし『何かがうまくいかなくても落胆せず、瞬時に次の一歩を踏み出せる意思の強さ』は、中学から高校に上がる際の“ユース落選”の頃から、ずっと変わらず。「アスリート北井佑季の原点・核なるもの」のように感じました。(取材・文 netkeirin編集部 篠塚 久)

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