アプリ限定 2022/08/23 (火) 16:30 26
日々熱き戦いを繰り広げているガールズケイリンの選手たち。その素顔と魅力に松本直記者が深く鋭く迫る『すっぴんガールズに恋しました!』。8月のクローズアップ選手は太田美穂(26歳・三重=112期)。5月16日に引退した師匠萩原操との出会い、妹の存在、そして命にかかわる大怪我。苦難を乗り越え、現在に至るまでの軌跡を写真とともにご紹介します!
太田美穂は三重県津市の出身で、太田瑛美(21歳・三重=120期)との2人姉妹。小学校低学年のときに、仲良しの友達がはじめていたので陸上クラブに入った。もともとそこまで足が速くはなかったが、練習の成果でメキメキと頭角を現し、中学時代には、ハードル競走のジュニア大会で好成績を残すまでになった。その後、伊勢市内の高校へ進学し陸上を続けていたが、思春期特有の成長痛に苦しむ。そこで通っていた整体院がガールズケイリンと出会うきっかけだったと語る。
「成長痛がひどくて整体院に通っていたのですが、その整体院は競輪選手が治療にくるところだったんです。で、萩原操(51期=元選手)さんが整体の先生と面識があって、“ガールズケイリン見てみるか?”って話になって、松阪競輪場に行ってみることになったんです」
萩原操の第一印象は“やさしい”だった。
「こんなやさしい感じの競輪選手っているんだって驚きました。ごつくて、いかつい人しかいないと思っていました(笑)。選手を目指すことも強要はせず “1か月くらいゆっくり考えればいいよ。やりたいときは面倒みるから” と言ってくれました。師匠は初めて会ったときからやさしかったです」
そして高校3年の秋、ガールズケイリン開催中の松阪競輪場。そこで初めて見た“ガールズケイリン”のレースに、太田は興奮した。ちょうどその開催で優勝したのが山原さくら(104期)で、その走りに大きな大きな刺激を受けたという。開催終了後に、師匠になる萩原操とその関係者に案内され、自転車にまたがりバンクを走った太田。実際に見て、そして乗ってみて“ガールズケイリンをやってみたい”という思いが最高潮に達し、競輪学校(現・日本競輪選手養成所)112期生合格を目指すと心に決めたのだった。
高校3年の冬から競輪場で練習を始め、推薦(陸上競技)で岐阜経済大学へ進学すると、平日は岐阜、週末は松阪競輪場へ出向き練習を積む日々を送った。師匠や関係者のサポートもあり、112期の試験に合格。大学を休学し、日本競輪学校へ入学した。
だが、太田は競技経験が少なく、自転車の取り扱いについて入学当時は苦労したそうだ。そんなときに声を掛けてくれたのは内村舞織(112期)だったそうだ。
「ロード系の授業が苦手でした。いつも遅れていて“こんなんで選手になれるのかな”と絶望していた時もあったのですが、競技経験者で自転車の整備がうまかった内村舞織が手を差し伸べてくれて、経験の少ない私にいろいろと教えてくれました」
同期といえば鈴木美教(112期)の存在も太田を支えたそうだ。
「学校時代は普通に会話をする関係だったけど、選手になってからさらに仲良くなりました。(鈴木)美教さんが練習メニューを教えてくれたり、整体を紹介してくれたりして、いろいろ連絡を取り合うようになりました」
在校成績12位で競輪学校を卒業すると、デビュー戦に向けて松阪競輪場での練習に明け暮れた。
「競輪学校を卒業してから7月のデビューまでが一番練習した時期かもしれないですね。師匠や兄弟子の西村光太(96期)さんに付きっきりで見てもらいました。学校時代は先行ができていなかったので、デビューまでの間に先行の仕方を教えてもらいました」
2017年7月、京王閣でのデビュー戦は、いきなりグランプリ出場レーサー・高木真備(106期=元選手)との対戦だった。1走目は高木に何もさせてもらえなかった。周回中は高木の後ろでマークする形になったが、打鐘過ぎから仕掛けて逃げ切った高木に対し、太田は追走することさえままならず5着に終わった。2走目は前受けから突っ張り先行。力を出し切るレースをした。後方から仕掛けた高木にまくられるも、太田自身は2着に粘り、デビュー開催で決勝進出を果たした。強敵相手にひるむことなく、仕掛けた姿勢は競輪ファンの間で話題になった。
デビュー2場所目の奈良では先輩相手に逃げ切り3連発。初優勝を3連勝の完全優勝で飾った。
「奈良はガールズケイリンフェスティバルの裏開催だったので、優勝できました。優勝はできたけど、上位陣との上がりタイムに差があったし、上には上がいるなと感じました」
優勝に関しても冷静に振り返り、決して浮かれることはなく、さらに上を目指し日々練習に明け暮れた。初優勝以降もしっかりと力を出し切るレースで存在感を見せてきた太田だったが、まさかのアクシデントが起きた。
10月に松山で行われた愛媛国体ケイリンで落車。右側頭骨後頭骨骨折、右側頭部急性硬膜外血腫、前頭部外傷性くも膜下出血、急性硬膜下血腫、左前頭葉脳挫傷、と診断される大怪我。1週間、ICU(集中治療室)を出られなかったが、幸い一命は取り留めた。しかし一番深刻だったのが“競輪選手としての記憶”がなかなか戻らなかったことだったと振り返る。
「落車のこと、全然覚えていないんです。記憶がなくて。競輪選手だったことも分からなかった。けど、病院に選手仲間がお見舞いに来てくれて、いろいろ話をするうちに、記憶が少しずつ戻ってきました。梶田舞さんからお手紙とぬいぐるみをもらったりして少しずつ復帰に向けて動き出しました」
これほどまでに危険な状態になっても、太田は競輪選手として戻ることしか考えていなかったそうだ。
「愛媛のお医者さんからは“選手として復帰するのは危険。やめたほうがいい”と言われたのですが、自分はやめるつもりは一切なかったです。大学も辞めていましたし、競輪選手以外、なにをしていいかわからなかったですし。なによりも支えてくれる師匠や地元の先輩が、復帰に向けていろいろアドバイスをくれていましたから」
大怪我から、わずか3か月後の2018年1月に、太田美穂は四日市で戦列復帰を果たす。復帰当初はなかなか結果が出ず、苦しい時期も続いたが、復帰前と復帰後とでひとつだけ変えなかったものがある。それが、師匠から教わった“先行”でのレーススタイルだ。「前々に攻め、力を余すことなく出し切る」。太田は積極的なレースを心掛けていた。そして2019年12月の前橋で2回目の優勝を果たす。「グランプリ組のいない裏開催でしたから」と謙遜していたが、予選2走とも“先行”しての走りを見せてのもの。ファンの期待にしっかり応えた。
「もちろん、復帰して、落車に対する恐怖心がないと言ったらウソになりますけど、あの時の落車の瞬間を覚えていなかったから復帰に向けて前向きに取り組めたんだと思います」
恐怖心と戦いながらも、努力を積み重ねることによって太田の才能は2021年に開花した。1月のコレクショントライアル(取手)で決勝2着に入り、5月のガールズケイリンコレクション出場権をゲット。続く四日市で21年の初優勝を決めると、2月大宮、4月向日町と立て続けに優勝。5月にはコレクション(京王閣)、7月にはフェスティバル(函館)とビッグレースにも出場し、11月にはグランプリトライアル(小倉)にまで出場を果たすなど自身キャリアハイの成績を残し、ガールズグランプリ出場が見えるところまでやってきた。
「自分の成績が良くなったのは妹(瑛美)の存在が大きいですね。妹が養成所で頑張っている話を聞くと自分も負けられないと思って練習を頑張りました。妹にだけは絶対に負けたくないですからね」
今年も5月福井から名古屋、松阪と3場所連続優勝。7月富山、8月福井でも優勝し、賞金ランキング上位につけている。
「5月に師匠(萩原操)が引退しました。師匠が現役のうちにビッグレースで優勝したかったんですけど、それはかなわなかった。でも師匠が引退したことで、自分が弱くなったとは言われたくないし、今は気持ちを入れて頑張っています。
師匠はいつも優しい言葉を掛けてくれました。落車から復帰したときも一から練習に付き合ってくれましたし、引退した今でも“いつでも練習見てやるぞ”って声を掛けてくれます。とてもうれしい。だから結果を出して師匠に恩返しをしたいんです」
また、妹の存在も太田の心を激しく突き動かすという。
「11月のグランプリトライアルは2年連続で出ることができそうですし、今年は妹も出られそうで、とても楽しみ。7月の平塚(オールガールズ)で初めて妹と同時あっせんがあって、すごくやりがいがありました。ビッグレースで妹と一緒に参加できるのはうれしい。同じグループになるかどうかはわからないけど、対決することができたら楽しみですね」
身長は152cmとやや小柄だが、前々へと攻める攻撃的なレース、そして命が危ぶまれる大怪我を克服した不屈のスピリットは魅力でしかない。ライバルであり、家族でもある妹と切磋琢磨し、引退した師匠から教わったことを胸に刻み、太田美穂は初のグランプリ出場へ勇往邁進していく。
松本直
千葉県出身。2008年日刊プロスポーツ新聞社に入社。競輪専門紙「赤競」の記者となり、主に京王閣開催を担当。2014年からデイリースポーツへ。現在は関東、南関東を主戦場に現場を徹底取材し、選手の魅力とともに競輪の面白さを発信し続けている。