2025/06/13 (金) 12:00 23
日刊スポーツ・松井律記者による競輪コラム『競輪・耳をすませば』。10代の頃から競輪の魅力に惹かれ、今も現場の最前線で活躍中のベテラン記者が、自由気ままに綴る連載コラムです。
バブル好景気の名残が消えかかっていた92年、私は専門紙に入社した。
高校2年になると、学校にはろくすっぽ行かず、バンド活動なんぞをしながら、たくさんアルバイトをした。家庭教師に始まり、ラーメン屋、ビールの売り子、引越し業者、ウェイター、スナックのバーテン。少し蓄えが出来るほどには稼げていたが、まったく将来には希望は見えず、徐々に“プー太郎”同然の生活になっていった。貯金も底をつきかけていた時、折り込み広告で専門紙の「インタビュアー募集」という求人広告を見つけた。当時、スポーツ紙から選手コメントを買っていた専門紙が、自社でコメントを取る人材を育てる方針になった時期だった。すでに競輪が一番の興味になっていた私は、内側を見てみたくてすぐに飛びついた。
専門紙の本社は、自宅から徒歩で通勤できる場所にあった。社屋は昭和初期の学校のような造りで、タイムスリップした感覚になれる。薄暗い石の廊下の両脇には、古新聞が山積みにされていて、印刷機の油とインクの匂いがした。狭くてギーギー鳴る木造の階段を上がると、2階にオンボロの編集部があった。私は競輪の取材を楽しみにしていたから耐えられたが、まともな神経なら、これからこの社屋で働くのかと不安になるだろう。自分の前に入った人は、出社初日の昼休みに出ていって、そのまま戻って来なかったらしい。
翌年の夏には、さらにショッキングな光景を目にした。クーラーのなかった編集部は、トタン屋根から熱をガンガン吸収し、とてもじゃないが働く環境ではなかった。冷水を入れた金だらいに素足をつけて書き物をしている先輩を見た時は、ここだけ戦後かよ! と思った。とにかく夏場の内勤は地獄だった。
現在の専門紙記者は大卒が大半で、多くの仕事をこなせるのが当たり前。でも、当時の専門紙はヤクザな稼業と言う人も多かった。競輪選手も大半がパンチパーマだった時代。私が同僚となった人々は、実にバラエティーに富んでいた。働いていくうちに人となりが分かってくるのだが、前職がキャバレーの呼び込み、ギター1本担いで飲み屋を回る流しのおっちゃん、人身事故を起こしてトラック運転手をクビになった人など、すごいキャラが目白押しだった。だから私も採用されたのかなとも思う…。
その中に某市役所の割と偉いポジションに就いていた人がいた。まともな人もいるじゃん!と思ったが、この人がまた相当な遊び人だった。今になって思えば、黒い交際があったり、何か悪いことをして役所にいられなくなったのかもしれない。
30歳以上も離れたこの先輩(Mさん)に私はかわいがってもらった。競輪に詳しくて車券もうまかったMさんは中穴党だ。逃げ切り〜マークのような王道車券は買わず、支線のまくりや、本線3番手からの突き抜けなどを好んだ。
儲かると仕事帰りに飲みに連れていってくれるのだが、打率がいいので、月に3〜4日しかない内勤日は、ほとんど一緒にいたと思う。まだ二十歳だった私は、Mさんの昔話や、競輪の考察を聞くのが楽しかった。私の入社から数年で亡くなってしまったが、最初で最後の師匠である。
「松江健一(静岡・72期)ってのは、国持一洋の再来かもしれない」。「ウマのいない今井敬二郎(群馬・65期)のまくりは買いだぞ」。「高橋京治(埼玉・51期)の差しは黙って買っておけ」。こんな具合にレクチャーを受けた。
還暦を過ぎて今も現役の高橋京治さんにお会いする度にMさんを思い出す。Mさんのおかげで、派手さはなくても穴を出しそうな選手を見つけるのが割と得意になった。
まぁ当時の専門紙というのは、そんな集団(中にはちゃんとしていた会社もあった)だったので、スポーツ紙の記者からは完全に見下されていたし、競技会からの信用もなかった。現場に出始めた当時の苦労話は尽きないのだが、それはまた次号で語るとしよう。
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松井律
Ritsu Matsui
松井 律(マツイ リツ) 記者歴30年超、日刊スポーツのベテラン競輪記者。ギャンプル歴は麻雀、パチンコ、競馬と一通りを網羅。競輪には10代の頃に興味を持ち始め、知れば知るほどその魅力に惹かれていった…。そのまま競輪の“沼”に引き摺り込まれ、今日も現場の最前線で活躍している。