2021/08/05(木) 15:00 1 13
前回の悲運なレーサーシリーズはマエタク(前田拓也)だったが、新田康仁にも同じ匂いを感じる。新田も「取れる、取れる」と言われたが、結局、大きなタイトルはGIIのサマーナイトフェスティバルだけ。
「生きた時代が悪かったね(笑)。FIは30〜40回優勝し、記念も12回か13回優勝している。だけど、GIのタイトルには縁がなかった。南関の自力選手は俺ぐらいだったし孤軍奮闘。村上義弘君が日本一の先行と言われ、吉岡稔真さんや神山雄一郎さんも元気な時代。中部も山田裕仁さんや山口幸二さんが司令塔になり統率が取れていた。その時代に一人で真っ向勝負。あと、郡司浩平君が10年早く出て来ていれば、俺の競輪人生は変わったよ(笑)」。
1番の活躍は2008年。その年の琵琶湖の高松宮記念杯が準優勝、四日市のサマーナイトフェスティバルが優勝で、一宮のオールスター競輪も3着で表彰台に立っている。この年、6,000万以上稼いでもKEIRINグランプリには乗れず、次点の10位が2度あったと言う。
「ハッキリ言えば、宮杯は優勝したと思った。俺が外を踏み、手を挙げようとしたら、内から晴智の影が見えた(笑)」。
そして、13年前の一宮オールスター競輪は内田慶さんが亡くなったレースもあった。
「実は、あのレースは番組的に慶君は俺の3番手だった。だけど、彼は番手で売り出していたし、自分でやりたいと言っていた。俺も捲り選手だし強くは彼に言えなかった。結局、自分が逃げ切ったレースになったけど、それも運命だったのかなと…」。
失格が2回あり来期はA級。それでも「すぐに9連勝してS級に戻ってくる。そして、まだタイトルも諦めていないよ」とさわやかな笑顔で、弟子の鈴木陸来との初連係を楽しみにしていた。(町田洋一)