2021/07/07(水) 15:00 0 2
ーー売上51億8023万3900円、目標の50億円を超えました。盛り上がりましたね
そうですね。どのGIIIもだいたい50億円が目安ですから、当然そこは超えてくると思っていました。もともと目標の設定が低いですからね。入場者の上限が1200名までと制限もありましたし、やっぱりお客さんがたくさんいないと、盛り上がったかどうかは現地からは体感できなかったです。
ーー久しぶりの久留米競輪場はいかがでしたか
去年10月(火の国杯争奪戦)以来の久留米競輪でした。老朽化している建物もいっぱいありますので、これから競輪場は変わっていくと思います。ただ、議会を通さないといけないですし、売上ももっと上げていかないといけない。時間はかかると思います。一番良かったことは今回は4日間とも天気が良かったことですね。吉岡とヤマコウ(解説者の吉岡稔真氏と山口幸二氏)からはいつも「雨の中野カップ」と皮肉めいたことを言われてきたのですが“今回は違うぞ”というところを見せられました(笑)。
ーーレースを振り返ってみていかがでしたでしょうか
S級S班の清水裕友、佐藤慎太郎が決勝に乗れなかったわけですが、どちらもちょっと疲れている感じがしましたね。高松宮記念杯競輪の時よりも動きが悪かったというのもあります。逆に、岩本俊介、取鳥雄吾の両名は高松宮記念杯競輪の時は良くなかったですが、調子が良くないなりに自力で戦おうとしていて好感が持てました。そういうところが今回の(決勝に乗ってきたという)結果につながってきたのではないかと思います。
ーー優勝した吉田拓矢選手についてはいかがでしょうか
戦前から平原康多がいない中で、関東の若手(森田優弥、眞杉匠)の番手をまわれましたし、元々自力のある選手ですからね。優勝インタビューで“グランプリを目指す”と言っていましたが、GI・2着で、賞金ランキングも9位(7月3日現在)ですよね? 半年終わって9位以内に入っているわけですから、当然、この後半年をどうやって戦っていくかを考えます。そのためにも自分がいかに勝ちあがれるかという戦い方を整理していくことになると思います。力は十分にありますから。
ーー地元九州地区が決勝に二人乗りました
九州地区は山田英明が今回のメンバーの中では一番、力のある選手でしたからね。二次予選では打鐘前から先行していたように、調子も良かったんだと思いますし、結果的に本人は自信になったのではないでしょうか。地元・吉本卓仁も決勝で落車さえなければ、悪くても2着か3着はあったと思います。本人たちは悔しいでしょうけれど、九州勢にとっては良い結果だったと思います。
ーー若手はいかがでしたでしょうか?
若手は誰がいたかな。寺崎浩平。思い切りは良いけど、末が甘いところあります。寺崎も若手といいつつ、さほど若い年齢ではないので、もうちょっと自分なりに組み立てを考えた方がいいと思います。自信過剰すぎるのか自信がなさすぎるのか、チグハグな組み立てが見受けられます。それなりにトレーニングをしてきているはずなので、もうちょっと自信を持って走ってほしいですね。
ーー弟子の紫原政文選手が準決勝まで進み、あと少しで3着でした
一瞬夢を見ましたね(笑)。お、(決勝に)乗ったかな? って思いましたが、やっぱりダメでした。あれは力の差です(笑)。本人も“乗ったと思ったんですけど”と悔しそうにしていました(笑)。まあベテランですからね。怪我だけはしないように走ってくれたらそれで良いです。弟子で現役で走っているのも紫原と柴田了だけですし。
ーー中野カップレースの課題と今後についておきかせください
最初の頃はGIだ、GIIだ、という話もありましたが、GIの数自体も多すぎますし。そのレースにとっての適性な形がどういうものかを考えなくてはいけないです。中野カップレースも27回が終わって、この先大きく変わることはないとは思います。課題があるとすれば、やはり競輪は9車立てでやるべき、という点ですね。
コロナだから補充を入れないという方針は理解できますが、楽しみに来てくれているお客さんに欠陥商品(5、6車立てのレース)を提供するのはよくない。お客さんは車券を買いにくいと思います。
またそれが起こる背景のひとつに、競輪選手の数を減らしすぎたということもあります。一番多いときの半分近くじゃないでしょうか。かといって開催日数がそれだけ減ってるかというと減っていない。過密日程になって選手は疲れもなかなか取れない。疲れて練習しないでレースに出てくるから、落車が増える。ちゃんと練習して、しっかり休養して、万全の態勢でレースに臨む。選手のためにも競輪のためにもそこは考えていきたいです。
●中野 浩一(なかの・こういち)
高校卒業後、1975年にプロデビュー。無傷の18戦無敗を記録。「九州のハヤブサ」の異名をとり、77年のサンクリストバル世界選手権プロ・スクラッチ(現在のスプリント)で日本人選手で初めて優勝。その後、前人未到の10連覇を達成。80年には日本のプロスポーツ選手として初めて年間獲得賞金が1億円を突破。「世界のナカノ」「ミスター競輪」とも呼ばれ、92年の引退後は競輪をはじめ自転車競技の解説、スポーツコメンテーターとして活躍。2006年4月紫綬褒章を受章。日本自転車振興会顧問。1236走中666勝、2着221回、3着101回(4着以下はわずか248回で、うち9着は4回のみ)。通算優勝回数168回。