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【松山競輪】地元のドン梶應弘樹、大いに語る!

2021/05/15(土) 12:30 0 1

松山ミッドナイト競輪「e-shinbun杯争奪戦」は15日、初日を迎える。メインのA級特選、9レースに出走する御大・梶應弘樹に話を聞いた。

地元のドン・梶応弘樹。温厚になったが、時折、勝負師の鋭い眼光を魅せる。

 記者を数十年やっているが、梶應弘樹は簡単に話をできる選手ではなかった。茶色のサングラス越しの鋭い眼光にびびってもいた。最近は良き翁の雰囲気も出ているが、全盛時を知っている身としては信じられない。今でこそ笑顔やジョークを交えて話してくれるが、僕としては常に直立不動だ。

「あの頃は精神的に入り込んでいたし、常に気も張っていた。中四国は今と違い、ライン的に不遇な時代。マーク屋として攻めて行かないといけないし、極限の精神状態。今でこそ解説でニコニコしている小橋正義も、当時はそんな感じだったね(笑)。地区的にも“我が強いもの同士”だった。あの時代の選手がどう思って走っていたかを伝えていきたいね。馴れ合いとまでは言わないけど、今の選手にも感じて欲しい」。

 梶応自身は1992年の岸和田競輪で行われた全日本選抜競輪で優勝している。「自転車を漕ぐ能力はなかったけど、競輪に対する適応力はあったかもしれない。能力が足りないから常に勝負に徹していた。ラインに頼る競輪をやっていなかったから、逆にそれが良かったのかも。今と違い、強い先行選手に強いマーカーが行ける時代。吉岡稔真とは何度も連係したけど、抜かせない技術があった。余裕で差せると思う展開で、最後のひと踏みが違った。神山雄一郎の番手はなかったけど3番手はあった。あのクラスはペース配分が上手いし、こっちも追走からビリビリする感覚だったね。山田裕仁、ヤマコウ(山口幸二)がいたから中部全盛時代。北日本も勢いがあったし、近畿は松本整さん引退後は村上義弘が時代の寵児になった」。

 時折、眼光鋭い眼差しになり「7車になり、2分戦も多く、力任せの若い子が勝つ競輪になっている。簡単に言えば単調な競輪。だけど、9車の昔ながらの競輪が良いと言えば、そうでもない。どっちも長所短所があるからね。走っていれば、どんなレースでもストレスは溜まるよ」。

 まだ子供も小さく、その時は良きパパの顔ものぞかせる。「あと少し点数を上げればS級の点数が見えてくる。ここから1点上げるのは簡単ではないけど、家族やファンの為に頑張りたいね(笑)」。こちらも、こういう選手がいてくれると背筋が伸びる。そして、存在感に改めてビリビリした。(町田洋一)

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