2021/07/02(金) 16:00 0 2
出口眞浩は1994年のオールスター競輪の覇者。まだ南関のマーカーが血気盛んな頃だった。
「自力、自在、マークと脚質を変えて行ったが、タイトルを取った時は自在選手だった。結局、GIの決勝には5回乗ったけど、取ったのはその1回。2、3回惜しい展開があり、山田裕仁さんに付けた宮杯は一番悔しかった」
南関同士の競りがあったかどうか聞くと「相手が納得せず、折り合いが付かず競りもあったし、自分も納得行かないから競りになったレースもあった。今は競りなのに、朝から普通に話していたりする。僕らの時代では考えられなかった」
あの時代のマーカーは自分の魅せ方や売り出し方が上手かったと言う。
「俺の中では、トカ(ボクシングの渡嘉敷に似ているから高木隆弘の愛称)が南関のトップ。上に行けば行くほど、その“番手の1車”が大きくなる。だから亡くなった東出剛さんとかは、トカの後ろではタイトルを取れないと思っていたはず。だから凌ぎを削っていたし、南関トップのマーカー同士の競りもあった。ただ、トカと晴智はお互いリスペクトしていた。俺も結局、トカの前は1度も回る事が出来なかった。前を回っても良いと言われた事もあったけど、そこは“なし崩し”で回りたくなかったので」
ナショナルチームのスタッフである佐々木龍也が兄弟子になるが「龍也さんにはタイトルを取って欲しかった。あの人は普段は人間的に良いけど、選手になると悪いと言うか厳しい人だから(笑)」。あの時代の競輪に戻る事はないが「今はタテが切れれば良い競輪。点数だけで評価もされる。小松島記念で村上博幸君と競った武藤龍生君は、昔の良い匂いを出しているね」。一時代を築いたスターは言葉が重たい。(町田洋一)