2017/05/31(水) 02:20
最初にエクスキューズ(言い訳)をするならば、まだ競輪・オートレースの取材現場に足を運び始めて3ヶ月足らずである。少しずつ選手の名前と顔が一致するようになり、取材時の慣習なんかも把握しつつある。ようやく右と左が分かって来たというところだろうか?まぁ、要するにまだまだ初心者であることには変わりない。
初めてバンク内や検車場という特別なところに足を踏み入れたのは3月、伊東温泉競輪場だった。バンク内での撮影が終わり、レースとレースの合間に所在なく検車場入口近辺をフラフラしていると
「お兄ちゃん、いい身体してんねぇ!何かスポーツやってたの?」
ソコソコの年齢だと思われる選手がいきなり筆者に声をかけてきた。ちなみに筆者は世間一般的にお兄ちゃんと呼ばれる年齢をはるかに超えた40代ではあるのだが、取材初心者ゆえの挙動不審っぷりが実年齢を打ち消していたのかも知れない。
「あっ、野球をやっていました。一応、大学まで」
お兄ちゃんと呼ばれたことに少し戸惑いながらも簡潔に答えると
「俺も野球やってたんだよねぇ。一緒だねぇ」
それから少し当たり障りのない会話を続けた。しかし、名前を聞くタイミングを逃してしまったので結局は誰だか分からないまま。ただ筆者の中で初めて会話をした競輪選手に留まっただけだった。
「ごぶさたしています!宜しくお願いします!」
2ヶ月後の宇都宮G3の前検日、ソコソコの年齢だと思われる競輪選手を発見したので、とりあえずは大きな声で元気良く挨拶。今度はスンナリ筆者の名刺を渡すことも選手の名前を伺うことも出来た。
「俺、千葉の赤井。改めて宜しくねぇ」
S級2班・赤井学(千葉77期)、筆者と同い年やんかっ!!
「赤井選手、(昭和)48年生まれですよね?自分と同学年ですよ」
「そうかぁ、同級生かぁ。あそこの豊ちゃんも俺らと一緒の同級生だよ。向こうはスーパースターだけどさ」
赤井はチョット離れたところにいたS級S班・武田豊樹を目で追いながら教えてくれる。
しかしながら同級生という言葉は魔法のようなものだ。少しだけ遠い存在だった赤井に(勝手ながら)親近感が湧き、しばしの間、世間話や同級生ならではの話題に時間を費やす。赤井は高校野球を始めた息子のことを特に熱心に語ってくれた。
肝心の宇都宮でのレース、赤井の成績は芳しくなかった__4着、8着、7着で最終日の俗に言う負け戦でも7着に終わる。
レース後、検車場のベンチで肩を落としていた赤井が筆者に気付いて一言。
「俺、悔しいよっ!!」
赤井が競走得点で降格ラインボーダーなのは間違いない。そういう現実もあるのだろうが、この4日間で結果を残せなかった、思うような走りが出来なかったことが何よりも悔しかったのだと筆者は感じた。
悔しいという感情を筆者はもう忘れてしまっている。白球を追いかけていた頃は試合に負けて悔しい、打てなくて悔しい。その気持ちが前に進むためには必要不可欠で、次への大きなエネルギーであった。それを40代になっても持っている赤井は今もなお勝負の世界で戦う男であって、自分自身の成長を強く望んでいるのだ。そんな同級生の赤井を羨ましく思うし、尊敬の感情をも抱く。
取材者としても、同級生としても赤井のことは今後も注目して行きたい。
Text & Photo/Perfecta Navi・Joe Shimajiri(Joe Shimajiri)