競輪ドキュメント第3回/小林莉子(東京102期)

2017/11/18(土) 09:00

競輪ドキュメント第3回/小林莉子(東京102期)

逆襲のリコ

「松戸での落車は本当に恥ずかしかった」
悪夢は2017年7月11日、松戸F1でのL級ガールズ決勝戦のこと。
この松戸開催、小林莉子は追加斡旋だったが、初日・2着、2日目・1着で順調に決勝進出。小林は好調を維持していて、2017年はここまで既に8回の優勝を飾っていた。2012年(優勝)、2015年(3着)と、実績も残しているガールズケイリングランプリ出場も確実視されているような状況だったのだが、まさに“好事魔多し”である……。

悪夢の落車

号砲一発、小林莉子は積極的に前を取り合い、第1コーナーに差しかかったところで2番手に収まる。これと同時にデビュー間もない大久保花梨(福岡112期)が後ろから突っ込んできた。大久保の車体前輪が小林の車体後輪に接触して、まずは大久保が落車する。この影響を受けて、後続の尾崎睦(神奈川108期)も落車となった。
後輪に違和感を覚えた時、小林の耳には“ジャーッ”という異音が飛び込んでいた。当然のことながら後輪が気になっていた訳で、左へ顔を傾けて後方の確認。それはほんの一瞬のことであったが、スタートから数秒後のアクシデントに全体はペースダウンしていて、今度は小林が前を走っていた浦部郁里(福井102期)の車体と接触しそうになる。それを避けようとしたらバランスが崩れた……たいしたスピードは出ていなかったものの、小林はスッカリ遠心力を失ってしまった駒のように、バンクの内寄りである左側に“コテン”と、力なく倒れたのだった。

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活発な幼少期

三姉妹の次女・リコは幼少期から活発で、外で遊ぶのが何よりも大好きな元気印の女の子として育つ。逆に、姉(1つ上)と妹(5つ下)は積極的に外へ出るタイプではなかった。
「もしも姉と妹とキャッチボールをしていたら。うん、私がボールを投げたら永遠にボールは返ってくることはなかったでしょうね(苦笑)」
だから、祖父とのキャッチボールがお気に入りの遊びの一つで、地元の少年野球チームの練習にも足を運んだ。しかし、女の子だという理由で入部は断られてしまう。

小学3年生のある日曜日、朝から小学校の校庭へ遊びに出かけていた。そこでやっていたのは実に野球と似ているスポーツだった。
「楽しいっ!!」
リコはすぐに校庭で練習していたソフトボールのチームに入部する。そして、小学校4年生からはセレクションを受けて、あきる野市の選抜チームへ。この選抜チームでプレーを続け、小学校卒業後は東海大菅生中へ進学。そして、東海大菅生高までの約6年間、ソフトボール一筋の生活を送った。高校時代は正捕手として全国大会ベスト8の戦績も誇り、青春をソフトボールに捧げたというのは言い過ぎではないだろう。

高校ソフトボール部を引退後、リコは進路で大いに悩んでいた。実業団で続けるか?大学進学して続けるか?
「でも、ちょうどソフトボールが五輪種目からも外れて、少し盛り上がりに欠けていた時期でもあったんです。仮に実業団でソフトボールを続けても、親に仕送りとかできるのかな?って」
そのタイミングで、競輪学校サマーキャンプの紹介がある。ネット告知を見た祖父からも「片道5〜6kmの自転車通学で自信があるならどうだ」と、参加を勧められた。
当初はあまり気が進まなかったが、進路で頭を悩ませているところの息抜きくらいにはなるだろうと、リコは軽い気持ちでサマーキャンプへ参加することにした。

「ナニコレ!!!???」
初めて足を踏み入れたバンクのカント(傾斜)に恐怖を覚える。自転車もこれまで乗っていたママチャリとは明らかに違う。
「タイヤは細いし、ブレーキもないし。でも、これまでに経験したことのないスピード感がメチャクチャ楽しかった」
そして、このサマーキャンプでは競技経験者の加瀬加奈子(新潟102期)、中川諒子(熊本102期)、石井寛子(東京104期)は別メニューのAグループであり、格の違いをハッキリ見せつけられる。
「この人たちと戦って勝ってみたい、自転車を極めてみたいという気持ちになった」
強い者たちを打ち破りたい、リコの負けず嫌いに火が点いたのだ。
ちょうど競輪界は女子競輪(1949〜64年)の復活を決定しており、2011年4月からの競輪学校入校生を募集。約1年の訓練後、2012年7月にガールズケイリンとして再開する目処となっていた。リコは迷わずに競輪学校の受験を決意して、見事に合格したのだ。

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外出申請なしの競輪学校時代

「修善寺の環境が良かったんですかね!?とにかく虫だらけ。ムカデやら規格外にやたらデカイ」
競輪学校へ入学して、まず驚いたのは生息している虫の多さ、及び巨大さであった。小林は虫が苦手だったからだ。しかし、それ以上に厳しい現実も突きつけられる。それは女子1期生(102期)は自転車競技経験者と未経験者の力量差が大きかったということ。ほぼ初心者の小林は言うまでもなく後者で、入学直後の成績はかなり悪かった。

「強くなりたいか?」
小林に尋ねてきたのは担任だった関谷教官(敏彦/山口58期・引退)だ。
「強くなりたいですっ!!」
小林の即答に対して、関谷は「いくらでも練習に付き合ってやるから、それに応えてみせろ」と、それから寸暇を惜しまずに自由・休み時間、休日も小林の練習を見てくれることになった。
上(経験者)との差を詰めるには練習しかなかった。競輪学校は基本、日曜が休みで外出も可能だったのだが、小林は1回も外出申請を出さずに卒業した。
「デビューした時に戦えるなら、たかが1年くらいは耐えられる」
関谷も約束通り、練習をシッカリ見てくれた。結局、外出したのは強制的に寮から退去させられる帰省休み(お盆と正月)のみ。その束の間の帰省休みも練習に明け暮れる。
「師匠(富山健一/東京43期・引退)もマンツーマンで練習に付き合ってくれる方でした。競輪学校は座学の授業中に身体を休めたりできるんですけど、帰省時の師匠との練習は本当に朝から晩まで。ひたすらキツかった覚えしかなくて、本気で早く競輪学校に戻りたくて仕方なかった」
カレンダーにバッテン印をつけて、競輪学校へ戻ることを指折り数え、心待ちにしていたのは、きっと小林だけに違いない。
「本当にミッチリ、効率良く練習したと思います。あの時があったからこそ今があるって」
そう断言できるのは、約1年間、厳しい現実と真摯(しんし)に向き合い、努力を惜しまなかったからである。

初代女王ゆえの葛藤

競輪学校卒業後、デビュー節で、いきなり初優勝の栄冠を掴む。ガールズグランプリでは優勝して初代女王に。まさに華々しい競輪人生の幕開けだった。
「何も分からず、ただただ懸命に走っていただけ。ガールズグランプリでもガムシャラ、訳が分からないまま優勝していました」
しかし、ガールズグランプリ優勝を境にしてガラッと、小林の競輪人生が大きく変わる。
山口幸二(岐阜62期・引退)から「グランプリを獲った重さ、責任、プレッシャーがあるよ」とも言われた。その時は競輪界の大先輩の言葉に「そうなんですね」とは答えたけれども、現実味がなかったので軽く流していた部分もある。
「でも、山口さんの言われていたことがすぐに分かりましたね。まず、それまでの3〜4番人気から1番人気になりました」
オッズだけではなく、声援も大きなものに変わった。また、何よりもレースで勝てなかった時の野次が厳しくなった。これによって経験したことのない緊張、勝たなければいけないという重圧が増す。競輪選手として求められていることが変わったことを痛感しながらも、焦るだけで結果が伴わない。ルーキーイヤーとは対照的な空回りに、師匠からも「競輪はオフシーズンのないスポーツ、そんなんじゃ潰れるぞ」と、諭されるくらい散々だった。
「初代女王ということで、毎年のように新人の有望選手とも対戦させられる。負けたくない、負けられない……でも、自分らしいレースもしたい」
そんな葛藤もあったので少しばかり時間は要してしまったが、レースへの入り方やモチベーションの保ち方、メリハリが徐々につけられるようになる。自分の勝ち方が分かってきたことで成績も安定。さらには夏場に落ちやすかった(一気に5〜6kg)体重・体脂肪管理も苦労しなくなった。
「やっと吹っ切れた、楽しく走れるようになってきた」
小林に曇りのない笑顔が戻ってきた矢先、冒頭の悪夢が起こったのである。

落車負傷で学べたこと

落車した瞬間、左肩付近から“ゴリッ”という音がした。最初は肩が外れたかなと、思っていたが、鎖骨が盛り上がって動いていることに気付く。尚、このレースの車券人気は落車した小林と尾崎に、梶田舞(栃木104期)であった。結果、梶田は1着だったが、小林と尾崎が絡まなかったので3連単は10万円近い高配当に。鎖骨が折れたというショックと共に、車券を買ってくれていたお客さんに申し訳ない気持ちで胸が詰まる。
「今年はもう無理。治療に専念、ノンビリ休もう」
レース直後、小林の偽らざる心境である。だが、1ヶ月後、いわき平でのオールスター・アルテミス賞レース(ファン投票選出)を控えていたこともあり、SNSを中心に信じられないくらい数多くの激励の声があった。
「こんなに応援して貰っている、投票もしていただいてレースに出られる。自分の都合(ケガ)と気持ちだけで休んだらいけないな」
小林は自分の愛車を眺めながら、気持ちを奮い立たせる。左鎖骨を繋げるプレートを埋める手術から2日後、自転車に乗り始めて練習を再開。
「できるだけやってみよう!やれそうだ」
だが、身体は違和感しかなかった。骨とプレートを留めているボルトも通常より多く、柔軟性にも欠ける。それでも、多くのファンのためにベストを尽くしたかった。

自分の身体が自分の身体とは思えない感覚で、アルテミス賞レースに参戦。
「痛みを感じないでもがくと、骨が割れちゃう」という医師の判断もあり、痛み止めの薬も服用禁止であった。そのような状況下、いざ発走機に。
「この緊張感で走る環境は最高。やっぱり、私は競輪が大好きだなぁって」
アルテミス賞レースは惜しくも2着だったが、小林は優勝以上のものを得たかも知れない。
「言い方は悪くなるけど、ごまかしながらでも良い着を。そうなると戦い方を変えなきゃいけない。これまでレースの中で全く気にしていなかった部分に目がいく、発見ができるように。駆け引きは精神的なものが大きく左右、動じなさそうな選手でも一瞬は何かある。実際、レースで先行しようと思っても、先行できる選手は1人だけ。そこでみんなの走り方が変わる、動きがある。その瞬間が分かると言うか、アンテナが敏感になって、レース自体が面白くなっている」

ソフトボール時代は捕手というポジション柄、試合のVTRを熱心に観た記憶があるという。競輪選手になってからはさらに拍車がかかり、レースのVTRを何度も繰り返して観る。しかもただ観るだけではない。
「この人、どうしたかったんだろう?」
「こう考えているから、こういうことされたら嫌だろうな」
「自分だったら、どうしているかな?」
予測したり、自分自身に置き換えてみたりするようになった。

身体が動かなくなるまでは

松戸開催後、青森でも落車で右肘と右手小指を骨折。広島でも左鎖骨に入っているプレート(治癒には影響なし)が割れた。
「でも、鎖骨よりマシ。もう骨折にも慣れてきたなって」
だが、危険なレースの直後は狭いところに突っ込んでいけない。1歩目、2歩目が離れるので、追っかけて変な脚の使い方をしている。VTRで確認すれば一目瞭然で、課題は浮き彫りになる。
「広島の2日目、それに気付きましたね。そこから修正して、落車後に広島で初優勝」
負傷したことで遠回りにこそなっているが、着実に競輪選手としての成長を後押し。

あと2ヶ月、新たな年を迎える頃には身体を元(左鎖骨の骨折前)に戻し、完全復活する自信はある。そこから再スタート、まずは過去1回も獲れていないガールズコレクションで絶対に優勝したいという目標を掲げる。
「あとは“初代”だけで終わらない。もう1度、緊張感のあるグランプリも走って優勝する。来年からはG1競輪祭にもガールズグランプリ出場を懸けたレースが組み込まれるんですよね。絶対に面白くなるし、私もそこにいたい」
そして、ズーッと、競輪選手であり続けたいという夢もある。
「とにかく身体が動かなくなるまでは。高松さん(美代子/千葉102期・引退=
2017年3月、54歳で引退)は本気で超えたい。男子でも50歳以上の選手が20歳ソコソコの選手とのレースで対等に戦えている。それが競輪の面白さでもありますから」

2017年はこれまでの競輪人生において、最大の試練が降りかかってきたかも知れない。だけど、そこで分かったこと、学べたことは財産でもある。
さぁ、再び強い者たちを打ち破るストーリー、『逆襲のリコ』が始まるっ!

Text/Joe Shimajiri
Photo/Joe Shimajiri・Kengo Okada

小林莉子(こばやし・りこ)
1993年3月26日生 静岡県出身 東京102期
東海大菅生高
静岡県掛川市で生まれ、幼少時に東京都あきるの市へ引っ越す
小学校3年生からソフトボールをはじめ、
小学校4年〜6年まではあきる野市選抜チームに所属
東海大菅生中、東海大菅生高時代もソフトボールに打ち込む
正捕手として全国私立高等学校女子ソフトボール選抜大会ベスト8
競輪学校サマーキャンプ参加が契機となり、競輪選手を目指すことに
2011年4月に競輪学校入校
翌2012年7月、復活したガールズケイリンのオープニングレースでデビュー(2着)
同節決勝戦を制して、ガールズケイリン初代優勝者
同年12月のガールズグランプリでも優勝して初代女王となる(Joe Shimajiri)

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