2018/08/03(金) 19:45
小学校までは横浜のハマっ子、中学校からは鎌倉の湘南ボーイ。道理で堀内俊介は爽やかなオーラに包まれている訳だ。
幼少期から車が大好きで、憧れはレーサー・佐藤琢磨だった。
「佐藤琢磨さんがレーサーになるためのステップアップで、レーシングカートをやる環境がなかった。それで自転車から始めているんです。じゃあ、自分も自転車を始めてみよう」
そこで自転車部のある高校を探して、横浜高へ進学した。
中学時代はサッカー部に在籍していたけれども「引っ越したばかりで、近所で友人になってくれた子に誘われたんで」というのが大きな理由。
「サッカーをやるのは好きだったんですけど、小学校から本格的にサッカーをしていた人間とはレベルの差が明らかに違った」と、未練なく、自転車競技の扉を開いたのだ。
最初は部活として純粋に楽しんでいた。だが、自転車競技は堀内に合っていたようで、メキメキと長距離種目で頭角を現した。そして、高校最後の国体・ロードレースで優勝。
「自分はスター選手でもなんでもなかったんですけど、それまでの色々な大会での走りも見てもらっていたみたいで。あとは同じ神奈川で合宿なんかも一緒だった巴さん(直也・神奈川101期)や奥原さん(亨・神奈川103期)が紹介してくれたこともあって、中央大へいくことになりました」
高校から始めた自転車競技で様々な大会、海外遠征などを経験する。早生まれということもあって、中央大在学時にはU-23の国際大会(ロードレース)にも出場した。
「本当に楽しかった。だけど、大学卒業後、ロードレースで食べていくには厳しいかなと。大学時代、巴さんの口利きもあって、競輪場でアルバイト(救護)もしていました。正直、その時はあまり競輪に興味は湧かなかった。ロードと違って、ギャンブルという側面も当時は受け入れにくかったんで」
そして、堀内はリクルートスーツを着て、一般学生と同様に就職活動を始めた。
「就職氷河期でなかなか内定が出なかった。そんな時にチラッと、競輪選手という職業も選択肢にはなりましたけど」
しかし、無事に大手メーカーから内定が出て、その選択肢は1度、消えたのである。
「ロードもケガは多いし、サラリーマンの方が安定した生活が送れるだろうって、思ってましたね」
大学を卒業して、まずは約1ヶ月、千葉・幕張で新人研修。GW明けには汐留に仮配属された。前述したように車好きだったので、自動車関連の営業職へ配属希望を出す。
「営業だったんですけど、SEと力を合わせる部署だったんです。だから、SE研修もありました。色々なことを理解するのに時間を要する仕事ということは分かりながらも、気持ちのどこかでもどかしさもあった。会議も多いし、毎日のようにある接待営業(飲み会)もあまり楽しくなかった。定年まで働けるかな?生き甲斐を見い出せるかな?って」
そのような時、休日に趣味として自転車に乗っているのが本当に楽しくて仕方がなかった。
「ロードでヨーロッパへ行くには年齢的にも実力的にも厳しい。それならば、競輪選手で勝負してみよう」
堀内が決心を固めるにはそう時間はかからなかった。身近な同世代が競輪界へ身を投じていたのも背中を押した。伊藤彰規(神奈川96期)は横浜高自転車部の同級生、小原太樹(神奈川95期)は1学年先輩、後に競輪界へくることになる佐々木龍(神奈川109期)は1学年後輩だ。
「やっぱり、自転車が大好きだ。自転車に乗りたい。この気持ちを引きずるくらいならば挑戦したい」
堀内は1年でサラリーマン生活にピリオドを打ち、1度は消したはずの競輪選手という職業を目指すことになった。
まずは体力、及び自転車に乗るスキルを取り戻すために、母校・中央大の合宿に参加。それから約1ヶ月、オーストラリアにホームステイして、ロードレースの選手と共に自転車に乗り込んだ後に川崎競輪場の愛好会で練習。
「競技(ポイントレース)でカーボンには乗ったことがあるけど、競輪で乗る本格的なピスト自転車は経験がなく、感覚が掴めなかった。体力やスキルが戻った実感もなかった」
退路を断っての挑戦は不安であったが、不思議と自転車に乗っていると気持ちは落ち着いた。
「練習はキツイし、乗る前は嫌だなと思っても、自転車に乗ると楽しかったんですよ」
そして、練習でも競輪学校の合格タイムを出したことはなかったのだが、本番で見事に一発クリア。
「僕もビックリしたし、川崎競輪場の人間が“なんでアイツが?”って、一番、驚いたと思いますよ(笑)」
競輪学校在校中、堀内自身、成長したという実感は掴めなかった。ただ、師匠(三住博昭・神奈川61期)から朝練と自主練はシッカリやるように言われていたことをはじめ、真面目かつ忠実に競輪学校で生活を送る。
「僕は24歳で、しかもタイム的にもギリギリで競輪学校に入れた。入学前の事前研修でもがき合っても、みんなが圧倒的に強かった。デビューに向けて、このままの力量じゃマズイなって。サラリーマンを辞めて、プロとしてやっていかなくてはいけない気持ちが強かったので、気を緩められる時間は1秒もなかったです。吉田(拓矢・茨城107期)と新山(響平・青森107期)が抜けていましたね。山岸(佳太・茨城107期)が同い年で、小川(真太郎・徳島107期)が同じクラスでした」
競輪学校の生活は長く感じられた。それでも、長期休暇で地元へ戻った時は友人の車に乗せてもらい(競輪学校在校中は運転不可)、ファミレスへ行くだけで楽しかったというエピソードが実に堀内らしくて!?微笑ましい。
「日常のなんでもないことでテンションが上がって面白かった。そんな息抜きもできたから競輪学校でも頑張れたんだと思います」
競輪学校卒業後、堀内のタイムは確実に伸びていたのである。
晴れて競輪選手となってからも堀内は地道に努力を重ねて、着実にステップアップ。昨夏の伊東温泉G2サマーナイトフェスティバルから特別競輪にも名を連ねるようになる。昨年末の平塚G2ヤンググランプリにも出走して単騎ながら3着だった。
「強いメンバーと毎日、走れるし、自分自身の気持ちも入る。ヤンググランプリはお客さんも多くて、とても楽しかったです。当然、獲ってやる気持ちでしたけど、みんな強いんで。結果的にセコいレースになってはしまったんですけど、ああいう舞台で走れたというのは良い経験になりました」
4月の静岡F1での優勝も、大きな舞台を経験してからこその「毎レース、最後まで絶対にあきらめたくない」という堀内の“走り様”が出ていたように思える。また、メンバーや展開によっては臨機応変に戦いたいとも。
「基本は先行、捲りで外からだけど、時と場合によっては内からもいけるところは見せておきたい」と、実際にそういうレースが今年は何度も見受けられる。
「年齢的に見極めたいところですけど、大学自転車部の先輩である成田さん(和也・福島88期)のようになるのはもう少し先です(笑)。今は村上さん(義弘・京都73期)のレースがカッコイイと思うし、憧れますね。何よりもお客さんが喜ぶレースをする」
かつては競輪に関心がなかったというのが嘘のように、熱く語り続ける堀内の眼差しはとても強いものだった。
7月からはS級1班に昇班した堀内だが、現状に甘んじるつもりは毛頭ない。
「点数的には本当に全然ダメです、もっと上げていかないと。そこを意識して、現状維持よりは色々やって、どこかでシッカリ上げていきたい」
元ロード選手だけにそこを大事にしながらも、ウェートトレーニングやバンクに入る回数は明らかに増えているそうだ。また、ピストでの街道練習も多くなっている。
「色々な要素があるので、本当に競輪は難しい。展開が向かなかった時は割り切れる。でも、それは展開や他の選手のせいじゃなくて、自分自身の実力が足りないから。そう考えないと成長が止まると言うか、成長の仕方が変わってくる。レース直後は悔しかったり、情けなかったりはありますけど、冷静に受け止めるようにしています。力でねじ伏せる選手ではないので、これからも競輪をちゃんと勉強していきたい。みんな強い黄金世代の中で目立つ存在ではないかも知れないけど、遅れを取らないように一歩ずつ頑張るだけ。まずは記念競輪での優出です。それとサラリーマン生活は周囲から遠回りって言われるけど、当時の上司や仲間が応援してくれるし、今でも飲みにいく機会があるのは嬉しいこと。大学を出て、すぐに競輪選手になっていたら……きっとサラリーマンの大変さも分からなかったし、自転車が大好きなことにも気付かなかった。僕にとっては遠回りじゃなかったんです」
イケメンで爽やかなだけのアイドル・レーサーではない。自転車愛に満ちた骨太の競輪レーサー・堀内俊介から今後も目が離せない。
Text & Photo/Perfecta Navi・Joe Shimajiri
1990年1月17日生 神奈川県横浜市出身 神奈川107期
横浜高―中央大
高校時代から自転車競技を始める
長距離種目で頭角を現し、国体・ロードレースで優勝
中央大進学後も活躍したが、大学卒業後は大手メーカーに就職
しかし、自転車への愛が断ち切れず
競輪選手になることを決意して、大手メーカーを1年で退社
2015年7月、小田原競輪場でのデビューで1着・6着・1着
今期(7月1日)からS級1班に昇班
競輪界の未来を担う黄金世代の1人である(Joe Shimajiri)