2018/04/27(金) 14:03
可憐なルックス同様、本当に穏やかな喋り方だ。良い意味で“緩さ”も感じさせる口調の鈴木奈央と話していると、彼女が厳しい勝負の世界で生きていることを忘れてしまいそうになる。だが、鈴木は競輪選手としてガールズケイリンの未来を担う有望選手。そして、競技では東京五輪での活躍も期待されている。そう、正真正銘、筋金入りのアスリートなのである。
誰の人生にも様々な分岐点が存在する。そこで“あっちも、こっちも”というチョイスができるのは、まだ本腰を入れていない状況に限られるに違いない。かつては鈴木もそうだった。
「ちょっとだけ兄の方が早かったくらい、ほぼ同じでした」
小学校3年生になる頃、2歳上の兄・康平とほぼ同時期にロード自転車に乗り始める。親戚のおじさんが自転車を組んでくれたことが契機であった。水泳やバレーボールもやっていたが、自転車に乗ることはとにかく楽しい。兄に勝つという爽快感がオマケで付いてくることもあった。それでも、鈴木はまだ自転車に専念しない、中学ではバレーボール部に入る。
「本当に上を目指すとかじゃなくて。楽しくやる部活って感じでしたね。背も高い方だったし、ポジションはセンターでスパイクを打っていました。もう何年もボールは触っていないんで、今はもうヘタなんじゃないですかね(笑)」
中学バレーボール部はそんなに強くなかったようで、市内の大会が精一杯だったとのこと。そして、鈴木はバレーボールと甲乙つけ難い楽しみが他にもあった。それは週に1回、毎週土曜日に行われていた伊豆サイクルスポーツセンターでのクラブ活動。元競輪選手や現役競輪選手の指導が受けられるクラブには、バレーボールの部活動を休んで参加していた。ここからの選択肢は自然の流れで、高校では自転車競技を真剣にやってみたいと。兄が静岡星陵高校の自転車競技部に進んでいたこともあって、背中を追いかける形になった。余談ながら兄・康平と渡邉雄太(静岡105期)は自転車競技部で同級生になる。
「星陵は普通科・英数科・総合科があるんです。英数科と総合科は進学コース。私は普通科へ進みたかった、英数科と総合科は授業時間が1時間多い(1日当たり)から部活の時間も減っちゃうので。だけど、親が大学進学を希望していたので、英数科を受けたら……まさかで受かっちゃって!高校時代、勉強は本当に下の方でギリギリでしたね(苦笑)」
学業に関しては謙遜もあると思うが、高校時代、自転車競技に打ち込んだことは確かだった。同学年の部員は男子2名・女子2名で、前後の学年に女子部員はいなかったが、男子との差はあまり感じていなかった。
「実際にタイムを測ると差はあったんですけど。後ろに付かせて貰って、最後に追い込むくらいはいけました。男子と一緒に走らないと練習にならなかったですからね」
そして、小学〜中学時代から自転車に乗り込んでいた素地もあったのだろう。好成績を残す鈴木の名前は自転車競技界で瞬く間に広まり、強豪校(大学自転車競技部)から声もかかるようになる。ここでの選択肢、鈴木はこれまで以上に悩んだ。
「熱心に誘って下さった大学が多かったんです。静岡まで足を運んで説明していただいて」
自転車競技を続け、東京五輪に出たいというのが何よりの目標。しかも自転車競技は地元・静岡の伊豆ベロドロームで開催されることからも、鈴木の夢はさらに膨らむ。また、同時にガールズケイリンという道もあることに気付かされる。ただ、親の希望通りに大学を卒業してからだと、五輪の時に競輪学校在籍という逆算は新たな悩みの種に。そのように心が揺れ動いている高校3年の時、アジア選手権で加瀬加奈子(新潟102期)と同室になった。この頃の加瀬は競輪と競技を両立していて、鈴木の相談にも親身に乗ってくれたことで鈴木の気持ちは大きく前進する。
「高校を卒業して競輪学校へ。競輪選手になって、競輪と競技をシッカリ両立。ガールズグランプリと東京五輪を目指すことにしました」
穏やかな鈴木の口調が初めて語気が強いものになっている。当時の決心の強さを存分に伺い知ることができた。
現在よりも両立が難しかったと、鈴木は振り返る。強化指定選手ということもあり、在校中でも競技の大会や合宿への参加が許されていた。
「1週間くらい競技の大会や合宿に出て、競輪学校に戻ってくると朝練習とか本当にキツくて。タイミング悪く、いきなり測定とかあってもタイムが出ない。校長先生(滝澤正光)のT教場というクラスも何回かやめさせられたくらいだったんですよ(苦笑)」
当然、規則も厳しいもので、心が折れることも多かった。
「髪型……あんなに短くしたのは人生で初めてでした。競輪学校が地元の静岡じゃなかったら、そもそも入学することもためらったはずです」
それでも、練習環境と同期に恵まれていたことには心から感謝している。
「まず女子が20人以上も集まって練習できることなんてないですからね。切磋琢磨して少しずつ成長を実感しました。あとはみんな優しかった、私が競技の大会や合宿で抜けている時の授業のノートも全部取ってくれていたんです。大会へ行く前には“頑張っておいで!”って、お菓子をくれたり。特に仲が良かったのは高校時代から自転車競技で知っていた坂本さん(咲=神奈川110期・引退)と大谷杏奈(愛知110期)、お姉さん的存在だったのが蓑田さん(真璃=千葉110期)と里美さん(中嶋=愛知110期)でした。寧々さん(宮地=岐阜110期)も半年くらい同部屋だったんですよ。寧々さんは何事にも熱心で、朝練も欠かさずに出ていました。だから、毎朝、寧々さんの目覚まし時計で起こされ……起きていたんですよね(笑)」
2016年7月2日、地元・静岡の開催で鈴木はデビュー。成績は4着・1着・3着で初勝利も挙げたが、その次の平塚開催で初優勝(3着・3着・1着)したことの方が印象深いそうだ。
「まさか優勝できるとは(苦笑)。競輪学校とT教場の教えもあったので先行しようと思っていたけれども、展開もあって捲り追い込みに。競技経験で捲り方、追走してどこから車間を切ったら間に合うという感覚があったからこそ初優勝できたんじゃないかなって」
しかし、そこから高い壁が鈴木の前に立ちはだかった。ほとんどのレースで決勝まで駒を進めるものの、約1年間、優勝から遠ざかってしまったのである。
「勝ちたいという気持ち、欲が強くなってしまいました。踏まなければいけないところで、勝ちたいからもう少し遅らそうとか。結局、私の負け方は分かりやすいんです。自分が動かなければいけないところで動かずに間に合わない、それか先行して垂れちゃったというどっちかなんです」
自転車競技のオムニアム・ポイントレースならば1回の判断ミスでも修正して挽回も可能ではあるけれども、周回の短い競輪ではそうはいかない。また、勝てる時は基本的に何も考えていない、レース中に考えてしまうと出るのが遅くなってしまうという自己分析だ。
2018年は競技との両立の兼ね合いもあり、現時点で2開催6走したのみ。佐世保=3着・1着・3着、玉野=2着・3着・2着という結果は全て確定板ではあるが、鈴木の目指している高みからは無念でしかない。
「自分の力が足らないからなんですけれども、本当に悔しいですよね……」
報道陣からは判で押したように“久々ですけれども?”とか“3ヶ月ぶりだけど大丈夫?”という質問があり、日本代表という面ばかりが大きくクローズアップされる。取り上げられる、本命の◎印が付くのは競輪選手として嬉しいことだが、葛藤になっていることも否めない。
「はい、そこが私の課題だと思っています。勝たなくちゃいけないって、考えちゃうことになるところ。プレッシャーを感じないで走れるようにならないと」
再び鈴木の口調が強いものになった。
尚、レース前には予想紙も読むし、オッズも確認する。
「各選手のコメントから“どう動くのかな?”って。私も自力でレースを動かしたいので、自力の選手をチェックしています。その選手より先に動きたいので」
昨シーズン(2017−2018年)は確かな手応えを掴んだと、胸を張れるものだった。
ワールドカップ第2戦・マンチェスター(イギリス)で女子チームパーシュート=銅メダル、女子スクラッチ=6位の上位成績を収め、ワールドカップ第4戦・サンティアゴ(チリ)も女子チームパーシュート=銅メダル。アジア選手権・ニライ(マレーシア)はエリート女子チームパーシュート=金メダル(アジア新記録・日本新記録)で、トラック世界選手権・アペルドールン(オランダ)における女子スクラッチ=4位と、着実に世界の舞台でもトップレベルで互角に戦っている。これは2017年10月から日本代表中距離チームのコーチにイアン・メルビンが就任したことも大きい。メルビンはオーストラリア出身で、2013〜2016年はカナダのナショナルチーム男子中距離チームを指導して、劇的に成果を残した実績も持っている。
「それまでは短距離寄りの練習が多かったんですけど、ロードの練習が増えました。3〜4時間、乗り込んだりするので体力を向上させないと。団体追い抜きでは一走で、最もパワーを要するポジション。ギアを踏むのと長い距離を踏む練習が今はメインになっています。そういう部分も競輪につながればいいなって」
元々、ロード練習はあまり好きじゃなかったらしい。しかし、メルビンからパワーメーターを手渡されたことで、鈴木の意識に変化が生じた。
「今までは時速とMAXが出るくらいのだったんです。でも、渡されたパワーメーターは色々な詳細データが出るんです。走りながら見ることもできるし、右足の方が強く踏んでいるとか新しい発見があったり。練習が終わったら、そのデータをパソコンに取り込んでコーチに送るんです。コーチはオーストラリアに住んでいるんで、毎日、メールでやり取り。コーチがデータを分析して、各自に合った練習メニューを送ってきてくれます。受け身じゃなくて、コーチに指示された練習をやっていれば結果は付いてくる」
約1ヶ月スパンの海外合宿、及び国際大会以外では頻繁に顔を合わせられる訳ではないが、鈴木はメルビンに全幅の信頼を寄せている。だからこそワールドカップでポイントを重ねて、世界選手権へ出場。そして、東京五輪という現実的なステップも明確になった。
「東京五輪が終わってから、ガールズグランプリで頂点を狙いたいです。本当は五輪とガールズグランプリを同時にしたかったんですけど、現実は難しくて(苦笑)」
競輪と競技を両立させる中で、現行のルールでは競輪に専念している方が言うまでもなくガールズグランプリやガールズコレクションといったビッグレースには近道だ。
「以前の日本代表中距離コーチ・飯島誠さんから“ガールズグランプリは毎年、絶対に開催される。ただ、東京五輪は競技人生で1回のチャンスだぞ”って。だから、厳しいからじゃなくて、まずは東京五輪を目指すことが第一。それからガールズグランプリです」
もう幼少時とは違う。本気だからこそ目前に現れるいくつかの選択肢の中から、たった一つだけを選ばなければならない。
「今は楽じゃない。忙しいし、大変です。でも、本当に毎日が楽しいんです。これまでの選択で良かった、決断に間違いはなかったと、思っています」
これからも鈴木は何度も道を選ばなくてはならないはずだ。ただ、それは着実に輝く未来へとつながる選択肢。時には悩むこともあるだろうが、流されずに自分の意思を貫いたうえで決心して欲しい___。
サインをはじめ、鈴木の千社札ステッカーや応援タオルにも、忘れることなく富士山が描かれている。
「次(2018年以降)に静岡でグランプリはいつやりますかね?静岡でガールズグランプリがあったら、次は絶対に出たいんです!私は今年の年末は無理なんですけど、静岡でのグランプリ2018開催はちゃんとアピールしなくっちゃ(笑)。競輪学校もあって、伊豆ベロドロームで東京五輪もある。何か縁があるような気がします。私、静岡で生まれ育っていなかったら、自転車を続けていなかったかも知れないですもん」
敢えて記す必要はないだろうが……鈴木は地元・静岡が大好きだ。
Text & Photo/Perfecta Navi・Joe Shimajiri
1997年2月9日生 静岡県富士市出身 静岡110期
静岡星陵高
高校時代から自転車競技を本格的に始める
国内の大会だけに留まらず、アジアや世界の大会でも好成績を残す
大学進学も視野に入れていたが、高校卒業後に日本競輪学校へ
日本競輪学校は在校1位の成績で卒業
ガールズケイリン5期生として静岡競輪場でデビュー
2開催目となる平塚競輪場で初優勝
競輪で活躍する一方で自転車競技も両立
現在は2020東京五輪を目指し、日本代表中距離の強化指定選手
国際大会での活躍も評価され、2017年JKA国際賞の表彰を受けた(Joe Shimajiri)