2017/07/12(水) 13:46
『水泳で五輪に出て、競輪選手になる』
近藤隆司は小学校の卒業文集で、将来の夢をそう綴った。
小学校5年生くらいの頃だったと記憶している。父親から「競輪選手を目指せっ!稼げるぞっ!」と、母親からも「お金持ちになれるかも知れないわよ」というニュアンスの言葉をかけられたという。幼少時、身体も大きく(中学校入学時には身長170cm超)、水泳の大会で活躍していた近藤は運動能力面での自信に満ち溢れていた。
「ただ、結局は身体が大きかったアドバンテージで強かっただけなんですよね」
中学でも水泳部に入部して、日々、練習に明け暮れた。しかし、周囲の友人たちに身長で追い付かれると共にタイムが伸びなくなった。千葉県内の大会ではどうにか勝つことができたものの、全国大会常連選手との実力差を思い知らされる。日本選手権すら出られない……。
高校進学後も水泳を続けるが、自由形から平泳ぎに転向。短距離ならばどうにか勝負できるレベル、水泳に対するモチベーションを落とさずに済む。そして、高校1年の関東大会で、同種目の北島康介(1学年上)の泳ぎを目前で観る機会に恵まれた。
「驚いたというよりは、ただただ感動しました。飛び込んで水中から出て来たら、他の選手よりも身体は一つ以上前」
異次元にも感じた北島の泳ぎは感動であると同時に、大学で水泳を続けるという選択肢を頭の中から消す残酷なものでもあった。高校2年夏の進路相談の際には、進学しないで競輪選手を目指したいと、先生にも伝えた。
実際に競輪選手になるアクションを起こしたのは、ほぼ高校卒業と同時。愛好会というアマチュア選手が集って行う記録会が月に2〜3回あったので、まずは競輪学校合格を目指すために近藤も参加するようになった。
「競輪選手になれなかったら、父親と同じ仕事(運送会社のセールスドライバー)でもいいやと。親がやっている仕事を保険っていうのも失礼なんだけど、当時はそれくらいに考えていましたね(苦笑)」
しかし、すぐに近藤は愛好会の指導員だった藤代長武(千葉53期)に弟子入りすることが決まる。また、後に競輪学校で同期となる高橋雅之(千葉90期)にも声を掛けてもらい、高橋の兄弟子になる廣田久将(千葉83期)らとも練習を重ねて、競輪学校の受験は2回目で合格するに至った。
そして、この時期、近藤は夕方から深夜(17〜23時)まで牛丼屋のアルバイトにも励んでいた。
「1ヶ月、フルで頑張ってもバイト代10万円がやっと……稼ぐのは本当に大変だなって、実感しましたよね。高校を出て、すぐに競輪学校へ行って、いきなり競輪選手になっていたら。絶対にそういう苦労を知らなかったと思います」
水泳競技での夢が破れて、新たなる夢を追いかけながらの下積み時代を振り返る。その懐かしむ柔らかい表情から、近藤にとって自転車の練習とアルバイトに明け暮れた時間はかげかえのないものであったことは間違いないだろう。
競輪学校時代の思い出について尋ねると、開口一番で「最悪でしたねぇ」という答えが苦笑いと共に返ってきた。
「教官からは番号だけで呼ばれて、やることは自転車しかないし。合格した時の順位はソコソコ良かったんですけど、いざ入学したら周りは凄いヤツばかりだった。北津留(翼・福岡90期)なんかスイスの学校(WCC=ワールド・サイクリング・センター)からの特別入学とかで。もうレベルが違い過ぎて、あまりやる気にならなかった。55番!!って、怒られた回数だけはトップクラスでしたよ。結局、僕は本番(試験)にチョット強かっただけで、実力はなかったんですよね」
また、在校時は右膝のケガもあって、2ヶ月くらいトレーニングしない時期もあった。それでも、競輪学校を無事に卒業。ただ、卒業後もケガを理由にあまり練習しなかったという。
「これからデビューなのに、そんなんじゃすぐにクビになるぞ」
と、忠告してくれたのは米田勝洋(千葉62期)だった。さすがに近藤もベテランの先輩の一言で、重かった腰を上げる。
「で、練習を始めたら、膝は痛くなくなりました。あれ以来、再発もしていない(笑)」
2005年7月1日、立川競輪場でのデビューは今でもよく覚えているという。身体が仕上がっているわけでもないのに、なんとかなるんじゃないかな?と、根拠のない自信だけで臨んだ。
「武器も道具も持っていない、呪文も唱えられないのに戦いに行っちゃったみたいな」
丸腰かつ戦術も全く分からないのにデビュー戦を迎えてしまったと、近藤はゲーム好きらしくデビュー戦をRPGに例えて話す。
スタートしてからも誰も誘導員を追わない。すると「新人、お前が行けよっ!」と、次々に先輩たちから怒鳴られる。「俺かよ!?って、ノソノソ出て行きましたよ」
結果は2着であったが、スタート時に先頭誘導員から離され過ぎて、全員が過度牽制による重注(重大走行注意)の違反となる。レース後に先輩から「全員に謝りに行けよ」と、言われるが、その意味さえ全く分からなかった。
「あまりにも無知、あんな状態でよくデビューしたなと。中団がフタをする、抑え先行、捲り追い込み、外並走捲りとか言葉を知っていても、やり方が全く分からなかった。そういうのを競輪学校で教えて欲しかったですよ(笑)。」
こんな具合だったので、デビューから1年半くらいは「競輪の戦術も知らないし、力の差があり過ぎて、上には絶対に行けない」と、近藤は決め付けていた。同期でS級に昇進する選手が出てきても別世界のような感覚だった___。
Text & Photo/Perfecta Navi・Joe Shimajiri
1984年1月25日生 千葉県出身 千葉90期
175cm 77Kg 血液型A 脚質:逃
千葉北高出身
幼少時〜高校時代は水泳
中学までは自由形、高校からは平泳ぎ
高校卒業後、競輪選手を目指す
自転車競技は未経験だったが、
水泳と高校時代の自転車通学
(高校時代は“ママチャリ”で約25km/日)で培った体力で、
2回目の受験で競輪学校に合格
2005年7月、立川競輪場でデビュー(P-Navi編集部)